セカンド・チャンス

千村 裕子(60代)

 大学を出て就いた仕事は公立中学校の教員でした。教科は理科。教壇に立ち2年目に結婚し次の年に子どもができました。郊外の市にはまだ公立の保育園はなく、私立の保育園がひとつあるだけでした。赤ん坊はしばらく地方の実家に預けたり、個人のお宅にお願いしたりと、今思い出してもよくやって来れたと思うような子育て状況でした。二人目はもっと厳しくなりましたが、地域の女性たちと要求していた市立の保育園ができると少し楽になりました。
 子育てをしながら平穏に勤め続けてきたのですが、やがて中学校の荒れた時代がやってきて、私の勤務先にも問題が起き始めました。担任として、問題を起こした生徒の家に毎晩のように家庭訪問をしました。丁度高度成長期に入ろうとしていた頃、会社員の父親は帰りが遅く、その帰宅を待っての話し合いは10時、11時にも及びました。その間我が子はろくに食事もせずに母親の帰宅を待っている状態でしたから、担任していたクラスの生徒どころか、我が子が精神的に不安定になり、勤めを続けることが厳しい状況になり退職を決意しました。
 45歳の3月に退職したのですが高度成長期、会社が理系を必要としたため中学校の理科教員も足りなくなり、年度途中で病欠している人の代わりとして非常勤で週3日ほど学校に出ることになりました。自分の勉強する費用が出せることになり経済的には幸運でした。
 さて余裕ができて残りの日時を何に使ったかといいますと、大学での専門は理科でしたが、高校時代までは美術の方面に進みたいと考えていて、両親の猛反対で望んでいた進路を断念したいきさつがあったので、カルチュアセンター、そして専門学校で日本画の学びを開始しました。
 この頃(1985)ナイロビ会議から発した婦人の地位向上への取り組みが活発になり、前年我が市でも婦人行動計画の策定が始まっていましたこともあって、女性の地位向上に向けての関心が高まりつつありました。リーダー養成のための東京都や市の女性海外派遣事業も盛んでした。
 1993年私は市からの女性海外派遣に応募し、15日間の研修旅行に出ました。各区から意識の高い女性が代表となって参加していて、大いに啓発されたことを覚えています。男女平等にかかわる人や公的施設への訪問、報告書づくりを通して社会参加への勉強をしました。
海外派遣後女性フォーラム(女性行動計画に基づき男女平等社会の実現を進めるために市が主催する事業)の実行委員を務めました。1994年のテーマは「男女でつくる地域のネットワーク」で、1年間の活動を終えて20人ほどの委員が解散となったとき、フォーラム1回ごとにつながりが終わるのはもったいないと、1年間の準備を経て「こがねい女性ネットワーク」を設立しました。
 「小金井の女性たちがゆるやかなつながりをもち、お互いの交流を深め、情報を交換し合う中から自分を磨き、よりよい環境をつくり、だれもがいきいきと暮らせるまちづくりを進めていこう」と男女115名の会員を得てのスタート、初代の代表となりました。東京女性財団の助成を受け市民2000人にアンケートを行い「男女平等に関する意識調査」を実施、勉強会、行政への提言、審議会・委員会への委員推薦や、最近は若い会員の力で聞き書きによる市民の女性史を2巻発行しました。
 市民交流の機会も増えてきた1998年介護保険法が施行され民間のヘルパー派遣の事業所もでき、友人の設立したパーソナルケアの事務所のスタッフの待ち時間に絵を教えてくれないかと頼まれ会をつくりました。はがき絵の会と称して10年目を迎えます。ケア事務所は2001年NPOの法人格を取り私も理事の一人となりました。
 2002年学校の週休2日制が開始することになった時、子どもたちの土曜日の過ごし方が心配と、地域の保護者と共に、空き教室を借りて社会教育団体「土ようのたまり場」という、誰でも集える場をスタートし代表となりました。「異年齢のコミュニケーションの場・手の技をみがく・土曜日を有意義に過ごす」が活動の目標で、絵や工作・伝統あそび・原っぱ遊びを、地域の手伝ってくれるスタッフと毎土曜日実施して6年になろうとしています。
 2003年に市の男女平等基本条例、第3次行動計画の策定委員、今年度は市立美術館運営委員などを務めています。
 一足早く仕事をやめたという残念さはありますが、その後の社会参加のためにはよかったと思うと同時に、たくさんの人とのつながりができ、豊かな第2の人生を送っていることを感謝しています。