三十代から目指した研究者への道

石田 順子(40代)

 11年前、夫の留学に同行してアメリカ東南部のノースカロライナ州に渡った私は一生の仕事と考えていた東京都庁の食品衛生監視員を辞めざるを得なかった。意気消沈していた私は州が運営する語学学校に通いながら退屈をもてあましていた。あるとき身近にエイズ患者がいることを知った。日本でエイズと聞くと重篤なイメージがあったがまるで違っていた。その人は薬を飲みながら普通に暮らしていた。病気の人が薬を飲むことで普通の人と同じ生活ができるなんて何とすばらしいことだろう。大学、大学院と薬学を専攻した私だが、薬がこんな形で役に立っていることを初めて知り、薬の偉大さにすっかり魅了された。そしてこの機会に薬を創る研究への道を志したいと思った。
 一年間語学学校で英語を勉強した後、30歳で州立大学の訪問研究員となり、2年半抗がん剤を創る研究に従事した。帰国後、2年間研究生として母校に籍をおきながら第1子、第2子の出産育児の傍ら35歳で論文博士を取得した。その後この学位を活かせる職を探した。大学と国立の研究所で任期付き流動研究員を計4年間行った。その間に第3子を出産した。この時点で私の年齢は38歳になり、年齢制限の壁にぶつかった。多くの理系の流動研究員には39歳未満という年齢制限があり、その年齢までに常勤のポストを得ないと研究する場がなくなる。理系の場合、文系と違い在宅で仕事ができず、実験室での仕事が必須になる。私は結局常勤ポストに就く事ができなかった。3人の子育ても職を得る機会をさらに困難にした。実際その年齢に近づくと研究に必須の体力が落ち無理がきかなくなるのも確かだった。出産・育児による研究中断後に円滑に研究現場に復帰できるように支援する学術振興会「特別研究員-RPD」事業にも応募したが不採用となった。しかし夢をあきらめきれなかった私は、研究にこだわることをやめ、広い視野で薬に関わる常勤職を得ることを目標にして就職活動をした。さりとていくら視野を広げたところで右から左へは納得のいく職は得られないのが現実だ。派遣会社や大学で研究補助員、役所で翻訳や新規食品添加物の安全性を評価する文書を作成する技術員として非常勤の職を転々とした。中には学位を考慮してくれる研究室もあり、コンピューターのプログラミングなど知識の幅を広げられた職場もあった。帰国後6回の転職を経て幸運にも医薬品情報を患者、医療機関、医療従事者に発信する財団に就職することができた。薬を創る研究ではないが学位を活かして薬の正確な情報発信という人と社会の役に立つ仕事に就けたことは私にとってこの上ない幸せであり、まさにセカンドチャンスを得た結果となった。
 なぜ私がセカンドチャンスをつかめたのであろう。一つは柔道の先生に習った言葉と、もう一つは人とのつながりである。
 職を転々とする中で私は子供と一緒に趣味で柔道を始めた。柔道も職探しと同じく思うように上達しない。柔道を始めたばかりの頃は、投げられまいとむきになって稽古していた。小学生に投げられるなんてみっともない。それよりも投げられて痛い思いをするのがなによりも怖かった。受身もろくにできない私は怪我の連続で結局道場を変えた。2回目の先生に言われた言葉が「投げられたっていいんだよ。」である。研究も同じであった。30歳になってからいきなり研究をはじめても10年の差がある研究者にかなうわけがない。私は失敗してもいい。契約を更新してくれなくてもいい。試用期間で切られてもいいじゃないか。柔道から教えられたそんな心構えで実験をした。
 またこのチャンスをくれたのは人とのつながりだった。アメリカで当初大学院に入りなおそうと試験を受けたが、英語の点数が合格点に満たず、研究をあきらめかけたときだった。客員教授として日本から来ていた先生に日本人会で会い、偶然恩師の知り合いだったこともあり、その先生が訪問研究員として研究する場所を確保してくれ、論文博士への道を導いてくれた。学位取得後のポストを探しに母の母校である日本女子大へ求人登録をしに行った際も人とのつながりの重要さを痛感した。担当の方が私と同じく海外赴任経験者で、事情を説明したところ知り合いの大学の先生を紹介してくださり、半年後その研究室でプロジェクトの予算がとおった際、流動研究員として私を採用してくれた。研究に打ち込める環境と思い、活発な研究を行っている研究室に身を投じたが、10年のキャリアの差がある若い研究者に囲まれての研究に自分の限界を感じた私に今の職場を紹介してくれたのも人とのつながりであった。
 夢とやる気を持って始めた仕事を結婚によりあきらめざるを得なかった私が紆余曲折を経てセカンドチャンスをつかむに至ったのは、職を変わるのも良しとしてこだわりを持たず職探しをした結果と、それを支えてくれた人とのつながりであったと思う。