私のセカンド・チャンス

隅田 美幸(40代)

 文を書くのが好きだった。小学生の頃は、空想を楽しみながら詩を書き、旅の思い出を作文にし、中学生の頃は学級新聞をてがけた。日記帳はいつも机の引き出しの中にあった。大学の卒業論文でペンを握り部屋にこもれば作家にでもなったような気分。就職活動でマスコミ関係もあたったが、文章を書くのがちょっと好きなくらいで才能もない私が雇ってもらえるはずもなかった。
 貿易会社勤務、教員を経て夫の海外赴任でインドへ転勤。娯楽の少ないインドで退屈した私は、インドでの暮らしや子育てを通信にして日本の知り合いに送った。インド通信は帰国後、3人の子育て奮闘記と姿こそ変えたが続いた。女性の投稿誌と出会い、自分の書いた文章が文字になり多くの人の目にふれる喜びを知ったのはこの頃だ。
 しかし、専業主婦で子ども中心の生活にはうんざりで、社会と切り離されこのまま終わってしまうのかと思うと、焦りといらだちを覚え、もんもんとしていた。
 そこで社会復帰に始めたのが、近所のリフォーム店のチラシ配りだった。山坂の多い横浜の住宅街を重いリュックを背負い、ポストにチラシを入れる作業。1ヶ月何千円というアルバイト料だったが、自分で稼いだお金のなんとうれしかったこと。
 そしてそのチラシ配りが、ひょんなことから情報誌作りへと結びつく。店の奥さんが、投稿誌に掲載された私の文を知り、店の会員に配布する情報誌を作ってくれないかと言う。「書くことが仕事になる!」。私は二つ返事でOKした。40歳のときである。
 初めて自分の名刺を手にし取材に出かけ、文章をまとめ、慣れないパソコンと格闘して出来上がった情報誌。情報誌とはとてもいえないA3用紙の表裏だけの1枚から始まったけれど、専業主婦歴10年以上の私には、ありすぎるほどのやりがいと、好きなことが仕事になるうれしさで心が躍った。
 書くことを仕事にする思いが、どんどんつのり、生協でサポーターのライターとして応募し日本盲導犬協会を取材したり、聞き取り調査をして文章をまとめた。カルチャーセンターのエッセイ教室にも楽しく通ったが、エッセイを書いてもお金にならないことが、心のどこかにいつもひっかかっていた。
 そんなとき、「就職率の高さは抜群!女性のためのビジネススクール」という学校紹介の宣伝を愛読している投稿誌にみつけ、「本科ライター・編集者養成コース」に一年間通うことを決心。毎週木曜日は夕飯の準備をして出かけ、18時半から21時半まで乃木坂で授業を受けた。
 42歳の子持ちの主婦が夜に東京へでかけるだけでも大変だったのに、授業はおそろしいほどスパルタだった。毎週宿題があるは、とうていできないような課題が出るはで、ついてゆくのがやっとだったが、ライターの仕事を身近に感じられ楽しかったし、なにより個性あふれるクラスメートの女性たちが魅力的で刺激になった。
 その魅力的なクラスメートのひとりが紹介してくれたのが、現在私が記者を務める通信社だ。地方新聞の生活欄に記事を配信する小さな事務所だが、歴史40年の地道な通信社である。
 社会に通用するような経験がほとんどない私に新聞の記事なんて書けるのだろうかという不安はあったが、書くことが好きで書くことで稼ぎたい気持ちと、学校で鍛えた度胸と根性(?)で、修行が始まった。
 取材先で「出直してこい」と言われたこともあるし、「ひどい文であきれた」とお叱りを受けたこともある。通信社の代表に「甘ったれるんじゃない」とカツをいれられたときは、へこんだ。
 おこられてしょげても、それでも「書く」ことをやめなかったのは、取材先で様々な職業や立場の人と出会え、あるときは感心し、あるときは納得し、また励ましの言葉があったから。「人は誰でもその人にしかできない仕事や務めがあり、その場でこつこつ自分の力を発揮している」。取材を重ねるうち、ほんの少し世の中のことが見えるようになった。
 「再就職の秘訣は“一区間の切符から”。肩肘張らずに普段着で一区間の電車に乗るつもりで一週間に一日でいいから仕事を始めましょう」。私が尊敬する再就職アドバイザー原田静枝さんの言葉である。
 リフォーム店のチラシ配りと投稿誌との出会いがなければ、今の自分はないと思っている。専業主婦から突然、スーツを着て電車を乗りついで会社に出かけキャリアウーマンに再就職なんてありえないのだ。まずはできることから、ぼちぼち動いてみる。好きなことは、ずっと続ける。そうしていれば、少しずつなりたい自分が近づいてくる。