セカンド・チャンス

T・K(40代)

 現在は、臨床心理士として、主に『人のこころと関わる』ということを軸にフリーランスで仕事をしています。一つ目の軸は心理士として、スクールカウンセラー、病院、企業の中の相談室等で面接や検査を通してかかわりを持ち、対人援助を主体としています。また、心の健康を崩した人が職場や学校に戻るための治療やトレーニングのお手伝いもあります。もうひとつの軸は、教育です。大学等で心理学、特に生涯発達、臨床心理や人間関係、心理検査などを教え、企業ではメンタルヘルスや管理職研修、キャリア形成の講師などを行っています。

 最初の仕事は、製薬会社の研究所勤務でした。大学で酵素の研究をしており、実験が好きで、その延長戦で御縁があってのことでした。当時は女性の研究職としての採用はなく、実験助手でした。
 学生時代には感じたことのない違い。仕事内容に同期の男性とは差があり、ミーティングの参加はおろか、アイディアを出しても女性は余計なことを考えなくても良いという雰囲気でした。当時は、いかに仕事を任せてもらえるのかと考え、結果を出すことに必死でした。均等法ができ、上司の理解や援助もあって次第に仕事も任せてもらえるようになりました。また、自分が頑張ることで、能力のある女性の後輩たちにも道が開かれればという思いも強かったと思います。部下やチームを任せていただけ、チームの成果が認められるようになると、主任にもしていただけました。他の研究所の方とも意見を交わす機会も増え、仕事にも充実感が持てるようになっていきました。この頃に対人関係の重要性、人的サポートにも目が向き始め、カウンセリングを勉強し始めました。ちょっとした支えで、がんばれる後輩女性が多かったからです。
 さらに、違った機会も転がり込んできました。労働組合の執行役員になり、ワークキャリア、ライフキャリアのモデルの提案や、評価や賃金体系の骨子を考えたりしました。働く環境を整備するという意味で、仕事の傍らその役割にも力を注ぎました。これは、働き方やキャリア形成の重要性に目が向くきっかけになりました。
 しかし、仕事面でglass ceilingは確かにあったように感じます。同期も昇進し、後輩の男性も上がってきます。研究を半分、薬の申請に関する書類作成・環境整備の仕事へのシフトを言い渡されました。新しい仕事はゼロからの立ち上げで、実験の時間を奪われたことへのショックは大きく、自分を納得させるのに時間はかかりました。今思えば心身症だと思うような症状があったりもしましたが、自分なりに真摯に仕事をして、他研究所や外部業者も含めて、指導できるくらいになった頃に経営職になりました。研究の仕事はほぼゼロという内訳になったものの、申請のためのバックグラウンドとしての実験の必要性を指導することで何とかバランスを取っていました。そういう背景を理解されてか、新設の工場の立ち上げ時に、社内のプロジェクトにも参加させてもらえ、海外の申請に関しても知見を得るようなこともできました。もうひと頑張りすれば、自分も立ち位置が見えて、職場でももっと展開した仕事ができるかなとやっと思えるようになってきたところでもありました。
 しかしここでまた、転機でした。その職務を後輩男性の専門として明け渡し、今度は本社の品質保証部に転勤を言い渡されました。行くか辞めるかの選択肢しかないという所長のことばにかなり迷いましたが、周りの助言もあって、新天地へ向かうことにしました。それでも、今まで必死になって築きあげた地盤をまた奪われたという気持ちはぬぐい去れませんでした。転勤したものの好きな実験現場からは離れ、経験ゼロ。職位は自分より下であっても熟練者ばかり。右往左往した後、心身を壊すに至ってしまいました。自分にとっての仕事の意味が見いだせず、これ以上耐えても仕事への貢献は難しいと思い、退職を選びました。キャリア形成の重要性に関しての強い思いが、私の中に残りました。
 部下とのかかわりなどの必要性から始めていたカウンセリングの勉強は、この間ずっと続けていました。退職を機に勉強を深めようと大学院を受験し、運良く道が開けました。自分の子どもといってもおかしくない若い人たちと肩を並べてゼミや臨床実習をしつつ、大学院以前の心理の基礎知識は、学部の講義を受け、独自で専門書で勉強し積み上げていきました。教員の先生にはいろいろ助けていただきました。大学院を終了後に臨床心理士の資格を得て、現在の仕事の展開となっています。前職の経験は現在の仕事にも生きています。
 今は、日々新しい出会いがあり充実していますが、一方でその人の人生にとってどうなのかと苦悩することも少なくありません。それでもこの仕事で、再びやりがいと出会えたと思っています。また、人のこころをもっと知るために、博士課程にもチャレンジしようと現在準備中でもあります。