私のセカンド・チャンス

S・T(50代)

 今振り返ってみると、私が選んだ仕事は3つあったように思います。一つは学生の頃で、学費と生活費を稼ぐためで食事代を、うかすため飲食関係の仕事です。2つは、大学(夜間)で福祉学科を専攻し、福祉に興味があったので、在学中や卒業後は障害児ボランティアや保母など児童福祉関係の仕事です。3つは、結婚後四人を産み、末っ子が2歳の頃より趣味で続けていた水泳を活かし、「趣味と実益を兼ねて」プールの監視員を始め、その後は、スポーツクラブの水泳のインストラクターをしました。その間に救助員の資格や水泳指導員の資格を取り、夏季は小学校の水泳の授業や障害児水泳の補助などもしました。空き時間は自分のマスターズ大会へ向けて泳ぐ練習をし、ほとんど毎日プール漬けの日々が続きインストラクターは8年位続けました。が、50歳になった頃「このままの状態でプールの仕事はいつまでも体が続かない」と思い始め、末っ子は中三なので、せめてあと7~8年続く仕事を探す必要があると考え始めました。最後の転職で済むようにと考えると、自分で納得できる生きがいのある仕事をしたい。と切実に思うようになりました。
 けれど、自分はどんな仕事をしたいのか、を知る事が必要になりました。スポーツクラブに来る子ども達は比較的恵まれているけれど、そうでなく、何らかのハンディやリスクを持ち支援が必要な子どもに携る仕事をしたいと思うようになりました。やりたい仕事は漠然と決まりましたが、この年令で希望する仕事につけるだろうか。と思いましたが、なければ、そういった職種の事業所での掃除のパートでも何でもいいから、そこで頑張っていれば仕事に少しでも関われるだろう、と決心しハローワークへ相談に行きました。ここで初めて、自分が四年制大学を出た事で、社会福祉主事任用資格や児童相談員などの資格がある事を知りました。そのおかげで求人も思っていたよりもありましたが、夜勤があったり時間的に合わなかったり勤務先が遠かったりとで見送りました。私としては、できれは夜勤は避け、泳ぐ時間を週に2-3回ほしいという事を考えていました。
 それから一年位は、スポーツクラブの仕事を続けながら、新聞の求人広告のチラシや街頭にある求人雑誌を見る日々が続きました。自分に資格がある事を知った事で探せばきっとあるという前向きな気持ちになれたのは本当に良かったです。そんな中、昨年11月に地元国分寺で「福祉の仕事、面接会」という催しがあるのを知り、出かけました。その場には18の事業所が参列していて、それぞれが数分間の仕事のピーアールをしてから、参加者が興味を持った事業所の居るテーブルに移動して1人ずつ面接し話をする形でした。とても意義のある場でしたが、老人介護関係ばかりであきらめかけていたら、1つだけ知的障害児(者)の事業所がありました。そのためか、希望者が多く並んでいましたが、せっかくなので話だけでもと思い順番を待ちました。話を聞くと、障害児の下校後の余暇時間を曜日によっていろいろな活動をする援助するもので、ダンスだったりスポーツだったりで時間も午後で、自分には合っていると思いました。しかも月曜日は障害者センターのプールで水泳指導との事。話は、はずみ翌週より月曜日プールだけでもという事が決まりました。その障害者センターのプールは自宅より近く、何年か前にそこでのプールの仕事はないだろうか、と電話で聞いた所なのです。それを知った時は今迄探してきた事は無駄ではなかったと思えました。そして12月よりプールに加え、火曜と木曜も支援のアルバイトを始めました。初めは障害者の方々をまだ知らないので、とまどいもありましたが、好きな仕事なので、そのゆったりした時間の流れの中での仕事は楽しくなり、これなら続けたいと思うようになりました。そして嬉しい事に、理事長とも面接をし、2月からは、非常勤職員となり昇給して頂き、働く事になりました。時間的にも収入としても、又事務所も近くて、こんな良い条件がそろった仕事がみつかるとは思っていませんでした。四月からは青年部(18歳以上)のイベント企画などを任される事になっています。そうなると、通信作成もあって、パソコンができない私としては不安はありますが、雇って頂いたからには応えられるように頑張りたいと思います。
 ある意味で運が良かったのかもしれませんが、自分の気持ちを大事にして、あせらず1つずつ積極的に探す事で、生きがいのある仕事を探せると思います。
 これからも更に勉強して、利用者の方々により良い支援ができるようにという気持ちでいっぱいです。
 今回の職探しに関ってくださった方々、ハローワークや国分寺仕事センターの方々、そして面接会で担当された方、新人を温かく受け入れて下さった仲間に感謝しています。