私のセカンド・チャンス

T・M

 ずっと昔・・・私は料理研究家・教員・ナレーター、そしてちょっと成長してからは、官能小説家になりたいと思っていた。子どもながら欲張りな私だった。
 さて今、私は保育と福祉の専門学校で働いている。これまで何度も転職をし、何度も転機も迎え、初めてやっと楽しく仕事をしていると感じている。
 東大紛争など全国的に学生運動のかなり盛んな中で、私たちノンポリ学生は、時々のゼミの休講を喜ぶような毎日を過ごしていた。「三島由紀夫の割腹自殺」というニュースだけが、なぜか強く心に残っている。私は就職内定を何社かもらっていた。ところが両親のあまりにもうるさい過保護な状況を脱したく、今思えばバカなこと、ケッコンに逃げ場を求めた。この人の子どもを産みたいという強い思いがあったならば良かったのに・・・結局逃げのためだけに、大学を出たその年に結婚。しかし仕事がしたいという気持ちは抑えられず、翌年の春、私は小学校に勤め始めた。2回の流産をし、3回目の妊娠で仕方なく仕事を辞めた。夫は、子どもが1歳になった時、突然事業を起こした。私は生活苦解消のため小学校に復帰した。事業が軌道に乗ると夫の会社に復帰、そして事業の失敗と共に35歳で離婚。子どもはまだ小学校3年生であった。これもまた突然、子どもと私が放り出された。離婚もまだ、今ほど簡単な時代ではなかった。
 この時から、私は子どもと二人で生きることになった。最初は専門学校の事務員となる。上司から大学を出ているからというだけで疎まれ、関連病院に出向させられる。多少のことがあっても、子どもが大学を出るまでは、仕事を変わるなんていけないことだとも考えていた。
 そんな折、私はある人と知り合い、料理レシピや、ちょっとした文章を頼まれることとなった。たまたまそれが評価され、私は日本で一番大きな食品会社に46歳で正規採用された。子どもが大学卒業したことも気持の中で後押しされた。私にとって大きな転機でもあった。経験したことがなかった営業である。この時しっかりと営業のノウハウを学び、提案営業の大切さを身につけた。若い営業の人に混じり、東京や関西でのプレゼンテーション講習など受講させてもらえた。おばさんでも負けないぞと、かなり自分にカツを入れてがんばっていた。その時のことが今の仕事にも大いに役立っている。高校や大学などでも料理講習会を行うことなども多く、料理研究家になりたかったという夢の実現もした。また社内報などのレポーターに選ばれ食について書いたり、レシピ作りなど楽しい仕事をやらせてもらえた。(官能小説家とはほど遠いけれど)今でこそ法令順守がしっかりと行使されているが、毎日、毎日遅くまで働いた。ギフト時期になれば、12時過ぎることも度々あり、ついに丈夫な私でも身体をこわしてしまった。
 卒業以来ずっと働いてきた私は、一区切りと思い、初めて仕事を辞めた。パソコンがまだ普及していない時代から、仕事で触れてはいたが、この際しっかり学びたいと考え、1年間の学生生活をした。
 そして終了すると同時に、今度は新米おばさん保育士として働く。大学時代に遊び半分で資格をとっておいた、そのカビの生えた資格を使っての仕事だった。肉体労働であり、さすがに身体にはこたえたが、子どもたちは可愛く、忙しく毎日を過ごしていた。その中で、これは若い人たちに教えたい、このことは伝えたいということがたくさん出てきた。新米おばさん保育士は若い学校出立ての保育士と違い、子育て経験や年輪の分だけしっかり判断する目、学ぶ目も持っている。本来家庭ですることを保育士がする、大変責任のある仕事である。
 そして、現在この大切さを学生たちに伝えている。学校では基礎情報・小論文・保育の授業を持っているが、昔とったナントカである。保育士は毎日プレゼンテーションをする。転職のおかげで身に付いた履歴書の書き方だって学生指導できる。昨年、小論文指導のためにしたニワカ勉強のおかげで、市の親善使節団の一人に選ばれた。米国ホームスティを経験し、保育園事情や福祉のことも垣間見ることができ、学生に還元することができた。
 振り返ると転機と転職の繰り返しの人生だったが、なりたかった仕事を選んできた。努力もしてきた。結局、道は自分自身で切り開き、自分の足で歩かなければできない。この春から、仕事の合間に夢のやり残しを実現する。ナレーターの勉強を始める予定である。いまさらではあるが、人生の宿題のやり残しは気になるので。