人の輪の中で生かされて

小野寺 典子(50代)

<チャレンジのきっかけ>
 私がまだ二十代の頃のことである。当時、小学校特殊学級のボランティアをしていたのだが、ある母親が疲れきった顔で担任にした打ち明け話を偶然、近くにいた私は耳にしてしまった…。
 「今度の夏休み、私はきっと、また息子の手を引いて札幌の街中を彷徨い歩くことでしょう。気がついたらいつも外に飛び出しているんです。死に場所を捜しに歩くのです。だから長い休みは怖い…」。穏やかではないその話と、すすり泣きに私は驚き「何とかしなければ」と思ってしまった。
 短大を出て小学校の保健室に勤務し普通教員免許を取ろうと通信教育で学習していたときのことである。特殊学級の父兄たちが「わが子が統合保育の幼稚園時代は健常児と一緒で差別もなく楽しい思い出も出来た」とよく語っており、私は通信で幼稚園の免許も取ろうと心に決めた。ところが「いつでも、どこでも誰でも」始められる通信教育は、同時に「いつでも、どこでも誰でも」辞めることのできる性格のものでもある。現実は甘くなく、卒業までに六年もかかってしまった。

<思わぬアクシデントに見舞われて>
 無事、二つの免許を取り、(さあ、お母さんたちと頑張ろう!)と思っていた矢先、不運にも地下鉄の階段で、急いでいたため思い切り転倒、腰椎を負傷し、半年間、ほとんどベッドに横たわる生活を強いられた。整形の主治医から「腰が安定するまでの数年間、教育現場は無理」との説明があり、私はその間、障害児教育の勉強を深めようと、大学院(修士)に進学した。
 そして三十代で郷里札幌に戻り、かなり遅い就職活動を開始した。
 「あなたの年齢で、この仕事(幼稚園)に就くのは遅すぎです。同年代の主任の人とうまくやることは、まず、無理でしょう。」
 「皆二十五位で結婚退職するのに、あなたはその年齢から本当に始めるつもりなのですか。」
 「独身で、子供を生み育てていない人に、この仕事は任せられません。」
 面接で次々発せられる厳しい言葉の連続。夢は約二年間の求職活動の後、あっけなく幕を閉じた。

<新しい道へ>
 通信教育、大学院、自分では精一杯、努力してきたつもりなのにまったく芽が出ない。親しい友人に相談すると「これからは“心の時代”。悩んでいる人のためにカウンセラーの資格を取ってみたら」とのこと。カウンセリングで障害児のお母さん方と出会え、役立てるかもしれないと考え、更に二年間、カウンセリングの講座を受けた。しかし、またしても厳しい現実に直面した。先輩の受講修了者の大部分がボランティア・カウンセラーとなり正式に仕事として収入を得ている者は、数名、しかも全員パートの身分だった。その時、私はやっと、自分の努力がいつも的外れで、現状を冷静に見つめ、把握していない欠点に気づいた。途方に暮れた気持ちになった。そして、一般の会社で食べていくしかないと決意。そのとたん、思わぬ運命の風が吹いた。

<自分の知らないところで決まった仕事>
 十二月上旬、電話が鳴った。相手はカウンセラー講師の一人、ある専門学校の校長からだった。
 「あなたが先日提出したレポートが非常に熱意に溢れていたので、失礼ながら履歴書を事務局に頼んで見せていただきました。私はちょうど、教員を捜していたところです。うちの学校に来てみませんか。」
 予想外の急展開に、その時は電話の内容をきちんと理解できなかったが、電話を切ってわれに返り、“人生は何が起こるかわからないものだ”と率直に思った。私のまったく知らないところで話が進み、全く不思議なことだが仕事が内定してしまっていたのだ…。

<それから15年が経って>
 仕事というのは人と人との出会いの妙と縁だとつくづく感じる。そして人の輪の中から次のチャンスがやってくるように思う。先述の学校は専任の話だったが札幌を離れることが前提条件で両親が病弱だったため私は非常勤の道をリスク覚悟で選んだ。当初一校だけでは生活が成り立たないのでパート社員(会社)のダブルワークをしていたが学校関係者の横のつながりのサポートのおかげで現在合計六校の学校で教えている。
 月日の流れの中で十年前、父が他界し、母は在宅“要介護3”で私と二人暮らしである。非常勤だからこそ介護にもエネルギーを注げるメリットはある。しかし、今、自分の老後を考えると再び生活設計の見直しをし、できれば“定年のない”(「生涯現役で働きたい」というのが目下の私の夢である…人に死ぬまで必要とされたいと願う)仕事に就くべく再チャレンジの準備に取り掛かっている。五年~十年後の自分の明るい笑顔のために。そして愛しい教え子に“老い方”を教えるために。