私のセカンドチャンス

小牧 弓子(50代)

 1970年に大学を卒業して3年間務めた教職を辞し、夫と共に1年間フランスへ行った。今度は英語ではなくフランス語を勉強したいという理由をつけて「仕事」から逃げ出したのかもしれなかった。帰国しても仏語の力が仕事に結びつくほどにはなっておらず、新聞広告で見つけた学習参考書の下請けの会社で働いた。
 30歳で長女を出産する前、仕事を続けるかどうか大変迷い悩んでいた。私は「男女平等・女の自立は経済的自立から」を実践すべく頑張って、生まれたての子供を保育園に託し産休明けから仕事に行った偉大なる女性達の少し後の世代に属する。大学で“ノンヤクト・ラディカル”を知り“NONの思想”を受け既成の権威や価値観を壊そうとした世代である。人間は全人的に生きるには、男も女も生活の糧を得る仕事と家事育児をみな平等にすべきである、と考えていたので、出産を機に仕事を辞めることはしたくなかった。しかし実際に生じるであろう大変さを思うと不安であったし、また子供を自分の手で育てたい気持も強かったのでとても悩んだ。
 そんな時、夫の「そんなに大事な仕事なの?」という一言で突っ張っていた気持が折れ、「あー、そうだよねー。そんな融通のきかない考えをしなくても良いかもしれない。」と思った。夫は日頃「たいていの動物は子育て中はオスがエサを取って来るじゃないか。それでもいいんじゃない。」と言っていた。私はやっぱり、こうあらねばならぬという思いに捕らわれていたのだなぁと感じ、思い切って産休明けに仕事をやめた。
 2年2カ月後に長男を出産し、家事育児に明け暮れる生活だった。楽しくも大変で単調な毎日だった。夫はその頃、朝出かけて夜帰ってくる仕事だったので、家事育児の分担は望むべくもなかった。長男が2歳になった頃から、心の隙間に不満が広がってきた。際限のない繰り返しのように思われる家事育児を1人で担う辛さに社会で認められる仕事がしたいという気持が加わり、私は毎日新聞の求人欄を眺めていた。夫は「そんな、君みたいな子持ちの中年女の再就職は難しいよ。」と言っていた。当時の一般的な見方だっただろう。私自身フルタイムで働く自信もなく迷っている時に、「非常勤講師はどうだろう。それなら時間も短いから娘の幼稚園のお迎えにも行ける。」と思いついた。私は教師の仕事自体は好きだった。無職の子育て中も、もしまた教壇に立つことがあれば…と思うことがよくあった。
 朝、夫を駅まで車で送る時、途中高校生がぞろぞろ歩いている。さっそくその高校に電話をした。「近くに住んでいる者ですが、英語の教師の職はありませんか。」まるで電話のセールスである。その日は7月の末でもう夏休みに入っていたが偶然にも登校日で副校長が対応して下さった。「英語の教師が1学期で退職し、今募集していますがご存知でしたか。」履歴書と教員免許証を持って飛んで行った。
 さて、仕事をすることが現実味を帯びてくると、まだ2歳半の下の子をどうしようかという話になる。こんな小さな子を他人に預けても良いのだろうか。保育園ってどんなところだろう。次々と不安になり、長女の幼稚園の先生に相談しようと思いたった。やはりプロに話すのが良いと思ったのだ。担任の先生のお宅に伺うと、先生の奥様が自宅で保育園を経営していらした。先生は「子供も1歳を過ぎれば社会性を求めます。1日のうち数時間、保育園のような所で過ごすのも良いと思いますよ。」とおっしゃるので、「ぜひこちらの保育園に息子をお願いします。」とお願いし、運良く入ることができた。その時の息子の担当の保母さんのお蔭で子供を他人に預ける不安が随分減った。彼女とはその後ずっと付き合っていて、今は私の親友である。
 一週間後、高校から採用の通知があり、それから25年間、同じ高校で非常勤講師として働いている。夫は「君は八百屋で大根でも買うように仕事を見つけてきたね。」と言った。その後、夫は自宅での仕事になったので、家事育児、生活の糧を得ることは平等とまでは行かないが分担できるようになった。
 私がこの経験で強く感じたのは、『求めよ、さらば与えられん。』である。強く求めて努力すれば(決して八百屋で大根を買ったのではない)、次々と扉が開かれ、備えられた道が先に伸びている。決してあきらめてはいけない。どんな年代でも、常に求めて行きたいし、まず『強く求めること』を皆様にもお勧めしたい。