ハローワークの相談員

松井 理恵(50代)

 結婚を機に退職した。仕事にさしたる執着もなかったからだ。夫と二人の子供の4人家族。平凡な主婦の私は幼稚園や小学校の保護者会で何かしら委員を引き受ける羽目になる。他の人のように、年寄りを抱えておりますのでとか仕事をしているのでと、さらりとかわす知恵もなかったからだ。周年行事のある年にPTA副会長を引き受けてしまい、この年の1年間はただもう、訳も分からず忙しかった。もちろん貴重な体験やすばらしい出会いもあり、得ることも大きかったのだが、もう勘弁してという不純な動機が仕事を探すきっかけだった。
 今から16年前、当時40才の私は、出先で立ち寄った普段利用することもない銀行で何気なくあたりを眺めていた。壁にさまざまな情報が貼られていた。「家庭教師します」「ピアノ教えます」「不要になった子供服あげます」などに混じって「事務補佐員募集、週3~4日、勤務時間相談」という1枚の情報が目にとまったときこれだ!と思った。その事務所は自宅から徒歩15分、自転車で行けば5、6分の距離。私は迷わず応募した。面接時、「パソコンはできますか。」と聞かれた。ぐっと言葉につまり「いいえできませんが教えてください。」と答えては見たものの、そうかパソコンができなければいけないのかと半ばあきらめかけていた矢先、採用の連絡が来た。勤務時間は「ただいまー」と言って帰ってくる子供に「おかえりなさい。」が言える時間までと決め、週4日の仕事をする新しい私の生活が始まった。その職場に11年。パソコンのスキルも身につき、ささやかながら働く喜びを感じていたのだが雇用期間満了を告げられた。「おかえりなさい。」はもう必要のないほど子供たちは大きくなったので、これから何をしようかと考えた。そうだ自分のために資格を取ろうと思い立ち、以前から興味を持っていた日本語教師養成講座に通った。2年間の講座終了後、すぐに就職につながるわけもなく当初はボランティアに精を出していたが、これでは自己実現は難しいと感じた。
それからの私は仕切り直しの気分。社会福祉協議会のボランティアセンターで6ヶ月の非常勤職員、区立小学校の障害児学級の介助員、都立病院でカルテのPC入力などの仕事をしながら、女性問題に興味を持つようになった。公募で海外派遣されたり、男女平等参画推進会議の委員を引き受けたりして、なお自己実現の難しさを知る。
縁があってハローワークの嘱託相談員となった。きっかけは求職活動をしていたある日、ご希望の条件とは違うかも知れませんが良かったら面接に来てくださいという内容のお手紙と1枚の求人票を受け取った。チャレンジの大好きなわたしは迷わず面接に行った。そして採用され、窓口にて職業紹介の仕事をすることになった。相談に来られる方々の話はさまざまで、仕事が決まらない苛立ちをぶつける人、いじめにあい心が傷ついてしまった人、意に沿わない配置換えや解雇等があり、やりきれない無力感を覚える。自分の力不足を思い知り今の私に必要なものはカウンセリングの勉強だと思いつく。産業カウンセラー養成講座に通い勉強を始め現在資格取得中である。まだまだ道半ばではあるが、振り返るとより良く生きるため、いつもチャレンジャーであった気がする。
ところで私は発病して10年以上になるパーキンソン病患者である。発病当初は「なぜ」「どうして私なの」という持って行き場のない気持ちを整理することができず、やりきれない気持ちを持て余していた。だけど変わりようのない現実、進行する病状、悲しんでいたって始らない。仕事中も震える症状が出てきたときは「すみません。薬が切れているので体が震えますが、ご心配には及びません。」と一言断ることにしている。相手に与える不信感、不安感が少しでも軽くなればと願うからだ。ある程度は薬でコントロールができるので、体の調子を考えながら、決して無理はせず今日も求職者と向き合って仕事探しのお手伝いをさせていただいている。いつまで続けることができるか不安でもあるが、決してあきらめたりなんかしない。だって自分の人生だもの。仕事を続けたい、社会とつながっていたい、そんな思いでいっぱいだ。
 振り返るとPTAの委員を引き受けたくないという不純な動機がきっかけとなり、物事を深く考えるようになったのではないかと思う。資格も経験も病気すらも転職の武器になる。常により良い自分に向かって歩んで行きたい。無理なく、完璧を求めず、チャンスを逃さず、身の丈にあった生き方をこれからもしていくつもり。パーキンソン病を持て余しているのだが、この体験もいつかきっとセカンドチャンスにつながると信じている。
(平成20年3月産業カウンセラー資格取得)