私のセカンド・チャンス

匿名(40代)

 私は1959年生まれの48歳です。現在は名古屋在住で銀行員の夫と大学1年の娘、アメリカに留学中の高校2年の息子の4人家族です。
 1981年に日本女子大学家政学部家政経済学科を卒業しました。卒業後は、名古に戻り、30倍という倍率で、第一希望の地元のブラザー工業株式会社に就職しました。会社では男女の区別なく仕事が与えられ、上司や先輩や同僚にも恵まれ、充実したOL生活でしたが、約5年間勤めて退職しました。その後上京して東京の会社に転職しようと考えていました。
 そんな矢先に、母が信州のゴルフ場で脳内出血を起こして倒れ、意識不明のまま救急車で病院に搬送され、脳外科で手術を受け、数週間は生命も危ぶまれるほどでした。何とか危機は乗り越えたものの、52歳の若さで右半身麻癖と失語症という重い後遺症が残りました。母は身体障害だけでなく、失語症という後遺症があり、言語訓練のリハビリをしていました。言語療法の先生のこれまでの生活歴なども念頭においた幅広い援助に励まされました。そして言語療法のリハビリのプロとしての指導力や先生の人間性にとても魅力を感じました。今まで「言語聴覚士」という仕事があることも全く知りませんでしたが、いつか私にもチャンスがあったら是非この仕事をしてみたいと思うようになりました。
 当時、言語聴覚士はまだ国家資格にもなっておらず(その後2000年に国家資格となる)学部を問わず4大卒なら、2年間専門学校に行くか、大学の専攻科で1年間勉強し、就職する病院があれば仕事ができるという時代でした。名古屋にも専門学校はあったのですが、私は母の先生の出身校の大阪教育大学特殊教育特別専攻科を受験することにしました。私は母が倒れた翌年に29歳で結婚し、当時私は34歳の専業主婦で、長女は5歳、長男は3歳でした。夫に相談したところ、私が進学することや働くことは想定外のことで、最初は戸惑っていましたが、言い出したら聞かない私の性格を知った上で、不承不承納得してくれたと思います。実家の協力を得ることは難しいので、義母に相談したところできるだけのことは協力するから頑張りなさいと応援してくれました。授業のある日は、朝5時に起きて、6時半の始発の近鉄特急に乗って大阪に通いました。帰りは、4時限の授業が終わって帰ってくると、保育園のお迎えの7時ぎりぎりに何とか間に合いました。朝は夫が保育園の送りを担当し、実習や集中授業の時は、義母が子供たちの面倒を見てくれました。
 卒業後はすぐに常勤の仕事は見つかりませんでしたが、1年目は病院と施設を非常勤で2日ずつ働きました。その当時、名古屋市立大学病院の精神科の教授が神経心理学の専門で、いつか私もその教授の下で勉強ができたらと思っていたところ、非常勤で働いていた施設の先輩の紹介で、念願の教授の下で常勤の職に就くことができました。言語聴覚士は通常病院のリハビリ科に所属して、言語障害のある患者様に言語障害の評価を行い、言語療法を継続的に行ったりするのが一般的です。私は大学病院という研究機関でもあったので、教授の専門である神経心理学を中心にした臨床に携わってきました。神経心理学というのは、言語だけでなく人間の脳の機能全般について、損傷部位と障害の関係を解明していく学問です。大学病院では、交通事故による記憶障害、神経疾患や特殊な認知症における認知障害などが主な研究テーマでした。そのような患者様に神経心理学的検査を行って症状を把握し、評価するのが主な仕事です6週に1回は夜の9時まで症例検討会や原書講読などの研究会もあり、稀な症例などがあれば、東京や地方で行われる学会発表もあって、昼間の臨床の仕事以外にも夜や休日に勉強や資料作りをするという日々でした。とにかく毎日が勉強という状態で、与えられた仕事を何とか自分なりにこなすだけで精一杯でした。仕事に家事に育児と目が回るような肉体的にはハードな毎日でしたが、精神的には専業主婦でいた時よりも充実していました。無我夢中のうちに13年という月日が流れ、子供達も成長し、私もキャリアを積むことができました。その間には、家族の健康問題や子供達の問題など様々なことがありましたが、そんな時も多くの人達の助けを借り何とか乗り切ってきました。そして幸運にも、昨年末には医学博士号を取ることができました。私の夫や子供達、義母や私の両親など家族をはじめ、私を指導してくださった諸先生方や先輩や同僚、子供達の生活を支えてくださった保育園や学童保育や学校の先生や友人、そして私の携わった患者様等など、どれだけ沢山の方の協力があったでしょうか。その中の誰一人が欠けても、成し遂げられなかったと思います。本当に感謝の気持ちで一杯です。今後は言語聴覚士の養成大学で、教員として後進の指導ができればと希望しています。