私のセカンド・チャンス

N・Y(50代)

 35年前、居心地のいい地方公務員を辞めてロンドンに行こうと思ったのには、特別帰国後の計画があった訳ではありませんでした。ただ行きたかっただけでした。わずか1年のために、と今の私なら思いとどまったかもしれません。同期で横浜市職員になった友人はもうすぐ定年を迎えます。もしもあの時私も仕事を辞めず続けていたら、と思うことはあります。でもその時はとにかく世界に出てみたかった。1ドルが300円、1ポンドが800円ぐらいだったでしょうか。楽しい1年でしたがお金がなくなり帰国しました。帰国しても計画があった訳ではないですから仕事も見つかりませんでした。そして、その後結婚、3人の子供を育てながら、わずかな英語翻訳、英文校正、事務職のパートと細々と仕事をしていましたが、もう一度、きちんと勉強がしたい、なにしろ、最初の大学生をしていた時は学園紛争の時代でしたから、ろくに勉強もしないのに卒業だけはさせていただきましたから。そこで、3人目の子供が小学校に入った年に、社会人入学で、横浜市大に入り、再び学ぶチャンスを得ました。39歳でした。その4年後の卒業の時、90年代前半のバブル崩壊の後、まさか43歳の新卒女子大生に就職があると思っていませんでしたが、横浜市の外郭団体がチャンスをくれたのです。もうすぐ卒業という1月の末頃だったと思います。45歳まで受験可能という事務職員採用試験がありまして、当時不況でしたから、かなり年配の方も多数受験場で見かけました。わずか1名採用に200人以上の人が応募してきたと後になって聞きました。最後の5人に選ばれた時は、これはもしかしたら、と思いましたが結果は不採用、社会福祉関連の団体ですから、社会福祉関連の勉強を大学でしてこられた方を採用させていただきました、と言われました。それは承知で受験しましたから、まあ、仕方がないかなと思っておりました。が、その数日後、その採用試験の担当者から連絡をいただき、今回は残念でしたが、もう一つ市の補助金で運営している若者の文化施設で急に欠員が出来、人を探しているのですが、もしよければ、そこで経理事務をしませんか、と声をかけていただきました。3月の半ば頃、本当に卒業式まであとわずかという時期でした。うれしかったです。わずか3人しか正職員のいない小さな文化施設でしたが、これでやっとフルタイムで働く事が出来ました。結局その年、横浜市大の社会人大学生で正社員で就職できたのは私だけでした。まあ、社会人大学生というのが今ほど一般的ではない時代でしたし、入学してきた社会人も卒業時に正社員の職があるとも思っていなかったでしょうし、それを望んでいたわけではない、という事はあったと思います。でも入学当初、そうは思っていなくても、4年間若い人達と一緒に勉強していくうちに何らかの形で社会で働きたいと思うようになったけれども、社会に出て行くためのハードルはかなり高かったという事情もあったと思います。その職場で私は11年間働きましたが、横浜市の財政悪化で補助金が毎年毎年カットされ、結局退職しました。自分の中でも、もうここでの仕事はこのあたりでいいかな、と思っておりましたからそれほど辛くはなかったのかな、と思います。
 さて、これから何をするか、と思うと結局好きなことに心は行き着きました。語学でした。英語、ロシア語、ドイツ語、ベトナム語といろいろやりました。もともとアジアに興味があり、横浜市大の卒論は「タイ農村と民主主義の発展」でしたし、ベトナムにもかなり関心がありましたので、このあたりで何かすることはないだろうかと思っておりました。ちょうどその頃、早稲田大学の土曜講座の日本語講座というのを知り1年間日本語教育という事について学びまして、さてそこからどうしたものか、現場を見てみたいと思ってお
 りましたところ、たまたま自宅近くの地区センターに「日本語クラブ」という外国人に日本語を教えているサークルを見つけまして仲間に入れていただきました。いろいろな外国人に日本語を教えていくにしたがい、自分の知識不足に日々気づき始めまして、これはまずいのではないか、たとえボランティアとはいえ外国人に日本語を教える以上はこちらもそれなりにきちんとした知識をもたなければと思い、そこで「日本語教員」という資格を知り、そういった資格があるのならば、それをまずとらなければと思いまして、その資格のための学習を始めました。日本語ボランティアを始めて約2年、やっていけばいくほど難しい、と思っている日々です。