私の挑戦(セカンドチャンスを求めて)

藤岡 順子(50代)

 1994年の年明け早々、43歳の私はアメリカ、マサチュウセッツ州スプリングフィールドに向けて成田を飛び立ちました。長い間考えていたアメリカで学ぶということをようやく実行に移すことが出来たのです。しかしやっとたどり着いた飛行場で50年ぶりとも70年ぶりともいう寒波のせいで、飛行場からの道路は通行止めになっていることを知らされた。私はそれがこれからのアメリカでの学生生活を暗示しているかのような気になり、一人ぼっちの薄暗い飛行場でなんとも心細かったことを昨日のことのように思い出します。
 日本の短大しか出ていなかった私はそれでもスプリングフィールド大学の三年生に編入することができました。授業が始まるとすぐに私はそれまで持っていた、英語は大丈夫、というかすかな自信が吹っ飛ばされ、精神的に不安定になったのでした。初めての地で老人学という未知の分野を外国語で学ぶことの大変さを改めて思い知らされました。
 予習に膨大な時間を割かなければなりませんでしたが、私にはもう一つ早急にしなければならないことがありました。それは、早く住む所を見つけ(それまで他の留学生とルームシェアをしていました。)三人の子ども達を日本に迎えに行かなくてはなりませんでした。そう、私の留学の条件は子ども達を連れて、だったのです。小さな町工場を経営する夫に経済的に援助してもらっての留学でしたが、6歳、8歳、10歳の子ども達の面倒までは頼むわけにはいきませんでした。
 最初の計画では3月の復活祭の休暇に子ども達を連れに日本に戻るというものでした。しかし勉強に追われ、治安のあまり良くない大学周辺で子ども達と住むべく部屋を探し、お金をかけないように生活に必要な道具を揃え、そしてまったく英語を解さない子ども達を学校に通わせる手筈も整えなければなりません。結局私が子ども達を迎えに来られたのはその学期が終わってからのことでした。
 私はアメリカに行く少し前にたまたま来日していたスプリングフィールド大学の教授に会う機会がありました。その時、3人の子どもを連れて留学すると話しましたら、その教授は子どもの年齢を聞いて、「それは君、酸素ボンベを持たずにエヴェレストに登る様なものだ。」と言われたのでした。次の学期が始まるとすぐ私は彼の言葉を実感することになりましたが、不思議と精神的には落ちついていきました。
 子ども達の新学期は9月のレーバーディの次の日から始まりました。私の通う大学の新学期も同じ日に始まりました。3人の子ども達は下二人が小学校へ、10歳の上の子は日本の5年生と6年生にあたる子ども達が通うミドルスクールといわれる学校に通うことになりました。私は一学期間の大学生活で少し憤れたとはいってもまだ皆についていくのに必死なことに変わりありませんでした。少しでも早く学位を取り日本に戻らなければなりません。授業を休むなど考えられないことでした。英語がまったく解らない子ども達がアメリカで初めて学校に行く日、私は子ども達に付いて行きませんでした。私がしたのは空き時間にまず下の子たちが通う小学校に顔を出し担任に自己紹介をし、次の空き時間に上の子の学校に行き同じようにしただけでした。今思えばなんと可愛そうなことをしたかとも思うのですがその時は、私が勉強するためにここにいるのであって、それ以外のなにものでもないと考えていたように思います。そのような状況で、子ども達は送り迎えに時間がかかると言う理由で滞米中日本人補習校に通うこともありませんでした。
 二年間で大学を終えると私はさらなる挑戦を考えました。それには大学の卒業式にコム・ラデといわれる優等賞をもらったことも励みになりましたし、その頃には子ども達が何でも現地の子ども達と同じように出来るようになっていたこともあり、もう少しここで勉強を深めたいと思うようになっていました。
 大学院は隣のコネティカット州にあるセントジョセフ大学になりました。住居を変えず、それまで勉強していた老人学を学べる大学院。当時老人学を学べる大学院はそれほど多くなかったのですが、大学のアドヴァイザーの教授が探して勧めてくれたのでした。
 大学院の授業についていくためにはまたまた必死の思いでしたが、年齢も職業も様々な、人生経験豊富なクラスメートや教授とのやりとりが、これが「学ぶ」ということなのかと思える貴重なかけがえのない体験になりました。
 1997年、私はあれほど手の届かない所にあると思っていたアメリカの修士号と「エヴェレストに登った」という達成感を胸に成田に戻ってきたのでした。この体験そのものがその後の私の生きがいになっています。