教員から専業主婦へ そして障害児との関りへ

Y・I(60代)

 時々私は、現在仕事をし、それを心から楽しんでいる自分に驚いている。
 私が短大を卒業したのは昭和40年、東京オリンピックの興奮冷めやらぬ頃である。
 当時私の周辺では、卒業と同時に結婚という友人も数人いて、就職してもそれは結婚まで、あとはほとんどがせいぜいアルバイトか家事手伝いという名称でまったく仕事はせずに花嫁修業という時代であった。我が家もしかり、私の夢であった演劇への道はとんでもなく、就職自体いい顔をされなかった。
 そんな折、学校から付属の小学校の教員にならないかと打診があった。母校は、幼稚園から短大までの女子の一貫校である。同じ敷地内の短大を廃し、他の大学を建てている時であったので、そのままスライドして進学したかったが、それにはまだ間があった。同窓の母も、自分の学校に就職するなら安心とばかり快諾してくれた。教免は取っていたが、教職に就こうとは思いもかけない事であった。
 短大は、中学校免許だけなので、東京都に助教諭申請を提出、必要な講習を受けた。
 こうして結婚までの数年間を母校とあと一校で働いた。元来子供好きなため幸せな期間ではあったが、舞台への夢は捨て去りがたくプロの劇団を受験、合格した。ところが、プロは駄目だと猛反対され泣く泣く断念した。
 やがて結婚、専業主婦となった私に、最大の試練が訪れた。長男と次女が、非常に珍しい難病だったのだ。治療の術もないため、二人とも夭折した。次女が亡くなった時には、長女も高校三年生であったので手が掛からない分、喪失感は埋めようもなかった。どうにかしないと自分が壊れそうで怖かった。その時、また働こうと天啓のように思ったのだ。
 それからがむしゃらに仕事を探し歩いた。テレアポや住宅の案内、デザイン関係の内職どれもピンとこなかった。やがてベビーシッターの大手に就職した。どんな子供でも、経験上みられるとの自負もありしばらく働いたが、ここでは子供を亡くしたことは、顧客に不吉感を与えるので言うなと言われた。たまたまお子さんはと訊かれたので言ったのが悪かったらしい。あえて言わないまでも訊かれて答えないなら、二人の子供の存在を消すことになるも同じだ。ここは譲れないと辞めた。
 他に教免を活かせるのはやはり教職しかないと区の臨時職員に登録した。やがて東京都非常勤講師にも登録した。同時期に区の図書館員に採用されたが、やはり学校が自分には合っていると思えた。
 まずは区立中学校内の障害児学級の介添え員からスタートした。知的障害児のクラスで軽度から重度までさまざまな生徒がいた。学習時の介助で、自閉症の生徒からいすが飛んでくることもあって驚いたが、何より着替えとトイレの介助が大変だった。
 その後、子供の在籍していた肢体不自由児の養護学校を皮切りに、都内の知的障害児の養護学校数校を廻った。
 気持ちよく迎え入れてくれて、働きやすい環境、職員も良い方達が多かったが、中にはいじわるな職員もいた。勝手に履歴書を見られていたらしいのには驚いた。これは管理の不手際であろうし、どうして一般の職員の目に書類が触れたのか、未だに不思議だ。私が短大卒であることで馬鹿にしたような言動を取った若い教員がいたり、自分がボスだから余計な手出しはしないでほしいと、ものすごい剣幕で言われたり、専業主婦が長かったことで揶揄されたりといろいろあったが、これらがみな女性職員というのが残念だ。
 私の専門科目が国語なので、区立中学校の国語の非常勤講師もしたが、元気がよすぎるというより学級崩壊に近いほど、クラスをかき回す生徒が数人いて、一年後任期が終わったときには、声が出なくなっていたこともある。
 そうこうする内に、現在の難聴児学級から声が掛かった。ふだんは、中学校の普通クラスに在籍しながら、英・数・国の三教科を難聴学級でサポートするのだという。当時の私は、手話ひとつできないし、難聴児の経験はないため一度はお断りしたが、再三の要請でまずはしっかりと、読み書きを教育してもらえばということだったのでお引き受けすることになった。全てが初めての経験ばかりだったがあっと言う間に十年の年月が経った。
 私が今こうしていられるのは一重に、難聴という障害を持ちながらも、真摯に生きている子供達と共に過ごす喜びであり、彼ら彼女らが少しでも、社会に出た時困らないように、また障害に負けることなく、正々堂々と胸を張って、輝いて生きていってほしいとの願いでいるからだ。その手助けのための努力は惜しまない。大学に入学したり、就職したりの報告が何よりうれしい。結婚間近の子もいる。
 非常勤講師の任用は一年毎の更新なので、来年度の採用は未定だし定年も近いが、必要とされる限り健康で働きたいと思う。これは亡き子らが導いてくれた私の道なのだから…。