女性のセカンドチャンス

M・K(50代)

 あまりにも日常的な言葉であるが、チャンスとは一体何であろう?思いがけず天から降ってくる、わくわくするようなイメージを伴う言葉だが、私はそんなすばらしいものを手にしてわくわくした記憶などあまりない。むしろ、あとから振り返ってみて、「ああ、あの時の私の判断と選択が今の自分につながったのか。」と、そんな淡々とした瞬間に、私の人生の流れが変わったような気がする。だから、その瞬間をチャンスと呼ぶならチャンス、
 つまり、人生の分岐点そのものが私にとってチャンスだったのだと思う。
 確かに、「人生計画」という主体的に選んでいく生き方の青写真もある。私にもそういった意識を持った時代もあった。しかし、計画通りに進まないのが、多くの人の人生ではなかろうか。特に、女性の場合、主体的に選択したくとも周囲の状況やおかれた環境にしばられて、むしろ不本意な選択を余儀なくされることは多い。しかし、スタートが不本意な選択だったからといって、終結も不本意に終わるとは限らない。
 私の不本意な選択の始まりは夫の度重なる転勤であった。子育てのかたわら、パートや趣味にとどまらない自己研鑽を始める友人たちを、焦りとも羨望ともつかない思いで見ながら、転勤族の夫に従って海外を転々とした。慣れない土地での生活と子育てだけで精一杯の十数年が過ぎてしまった。
 そんな私の結婚生活が落ち着いたのは、40歳を過ぎた頃になってからのことである。
 子どもたちの教育や、そろそろ放ってはおけなくなってきていた老親の都合で、私が夫と共に転勤先に赴任できなくなったのである。これもまた、どちらかといえば消極的な選択の結果によって得た「落ち着いた生活」である。しかし、結局これもチャンスだったのだと思う。
 妻でもなく母親でもない自分の生き方を求めて、私が最初に挑戦したのが日本語教育能力検定という日本語教師になるための資格であった。長い海外生活と得意分野の語学を生かすこともできる。そんな思いで手にいれた資格であったが、40歳を過ぎてからの就職活動は前途多難と思われた。しかし、年齢も実力のうちと強気で売り込んだのが功を奏して、民間の日本語学校に職を得ることができた。
 ところが、アジア系の就学生に日本語を教えて三年が過ぎた頃、親の介護という思いがけない壁にはばまれて休職に追い込まれた。ここでまた、自分の人生行路の舵を不本意な方向へ切らざるを得なくなった。たった二分の一という確率で決定された自分の性に期待された役割を、私は当然のこととして受け入れて、再び家庭に戻らざるを得なかった。
 やがて寝たきりの父が他界し、まもなく導入された介護保険のおかげで、認知症の母の介護にもめどがついた。三年ぶりに再び日本語教師の仕事に復職したが、基本的には家事と母の介護と、仕事の三本立てである。あえて繰り返すが、女性には暗黙のうちに期待されている役割があり、自分自身のために生きようとすれば、どうしても二足、三足のわらじを履かざるを得ないのである。
 それからさらに三年が経ったころのことである。アジア各地から日本語を学びに来日する学生たちと接しているうち、かれらのバックグラウンドをもっと理解したいと思うようになった。かつて夫と共に四年間を過ごした地もアジアであった。自分が体験した文化を体系として学んでみたくもあった。
 そこで、とある大学の三年時に編入し、かねてから関心を持っていた歴史・民俗系の勉強を始めることになった。50歳を過ぎて始めた大学生活である。若い人たちのように、具体的な将来設計につなげる必要もない。私の知的欲求を満たしてくれればいいときわめて無欲な進学であった。それに、大学だからこそ提供してくれる何百という教養科目は、社会人の私には魅力的であった。日常の生活に役立ちそうな実学の講義を上限まで選択して、大人の学生生活を有意義に活用しようと考えた。
 ところが、この無欲な動機から始まりながら、どん欲に挑んだ大学生活が、再度私の人生の流れを変えることになった。親の介護をしながら、日頃から抱えてきた疑問や矛盾への回答を求めて履修した福祉系の科目が、「社会福祉士」というひとつの資格へとつながった。歴史や民俗学の勉強も、「今」という時代を解き明かす鍵となった。いつしか、日本語教師としてではなく、社会福祉士として、時代や社会を見ている自分がいたのである。
 この時私の日常は、相変わらず家事と介護をベースに、大学入学当初は仕事も抱えた四足のわらじであった。しばらくすると、お金と時間を節約するために三年編入という形をとったことを後悔した。まず仕事を辞め、その後、資格取得を理由に留年という選択をして、新たな自分構築のため、目一杯大学生活を活用することにした。
 大学卒業後、社会福祉士として未経験の私に果たして活動の場があるのか、自分も周囲も懐疑的ではあったが、既に日本語教師に戻る気持ちは失せていた。使えるか否かも定かでない資格を片手に、控えめに仕事への可能性を探っていた時に、思いがけないところから降って湧いたのが、精神保健福祉分野の仕事であった。高齢者や児童福祉と違って、大学の授業でも、社会福祉士の教科書でも、比較的さらりと過ぎてしまう、どちらかと言えば地味な分野であった。私自身、この時まで仕事場として想定すらしたこともなかった。
 ところが、そんな職場にたいした覚悟も知識もないままに飛び込んで、胃痛を起こすほどの衝撃を受けることとなった。地味どころか、「何でも屋」の社会福祉士の手に負える仕事ではなかったのである。ここに至って「精神保健福祉士」という資格がなぜ別に設定されているのか理解し、まさに成り行きでこちらを目指すことになった。こうなるともうチャンスも人生の分岐点もない、人生の奔流に飲み込まれて行き着くところまで行くしかない状況である。そんな奔流の行き着いたところで、現在、精神保健福祉士として精神障害者の地域支援に関わる仕事をしている。もちろん、ここが終着点とは限らず、この奔流はさらに先でまた分岐するかもしれない。
 こうして、これまでの自分の生き方を振り返ってみると、主体的に選び取って生きてきた部分がないわけではないが、多くの場合、なにがしかの制約に縛られながらも、その間隙を縫って、しかも目の前の条件を自分なりに駆使して生きてきたのだという気がする。人生におけるチャンスはセカンドやサードで収まりきるものではない。いくつも連なってやってくる人生の分岐点、そのひとつひとつがチャンスであり、その時点での選択の積み重ねの中から、自らが紡ぎ出していくのが人生そのものなのかもしれない。