何かやり残したことはありませんか?

椿 真理(50代)

 2004年8月、私は春に大学・高校受験を控えた2人の子どもと夫と湘南の地で穏やかな日々を送っていた。ふと見た市の広報の女性講座の案内の記事で、「人生で何かやり残したことはありませんか?」という文言が目に入った。当時の私は、大学は希望の国立大学の工学部で学ぶことができたし、新卒で就職した企業の研究所では、新聞や雑誌に載る研究成果をあげることができたし、危うかった結婚も30歳前にでき、第1子出産とともに保育園の空きがなく退職したのは残念であったが、とても子育てしながら働ける環境ではなかったので、退職したことにあきらめもついていた。子育ては大変だったが、2人の女児に恵まれた今の夫との結婚生活は小学生のときからの夢であったし、娘たちは、健康でよい子に育ってくれ平和な日々を過ごしていた。子どもが学校にいっている間は、大学時代に始めた障害児ボランティアはフリースクール講師として再開でき、2年が経過していた。夕方は、数学の家庭教師を家族の邪魔にならない範囲で10年続けていた。その間、世間の専業主婦に対する風当たりが強いときもあり、何度か再就職の試験にはチャレンジしたが、終業時間を知ると末娘の姿が頭をよぎり、働く気にはなれず、「ご縁がありませんでした。」という手紙をもらうたび、再就職しない言い訳ができた気がして安心していた。100%とはいえないがまずまずの生活であると自分を納得させていた。
 そこに人生で何かやり残したことは?ときかれ、はたと考えた。高校時代、大学入学のために文理コースに分かれたときには、親の期待もあり、迷いなく大学では物理学を専攻することを決めた。それで、エンジニアとして働くことができた。しかし、その時心の片隅に、小学校のときからもっていた障害児教育をやってみたい(やらねばならないという)気持ちもあったことを忘れてはいなかった。それが30年たった今も完全には消えていないことに気づいた。その時、そうだ、大学院で障害児教育を学ぼうと思ったのだ。すぐに母校のホームページの教育学研究科(大学院)を検索した。何かのときにと、大学時代にとっておいた工業高校の教員免許が役に立った。教員免許を持っている私には受験資格があった。翌年の院募集はすでに締め切っていた。ほかに1年間で安い学費で障害児教育の教員免許をとるコースをみつけた。それを受けるか、来年まで受験勉強をして大学院入試を待つか迷った。迷いながらも趣味で先生について続けていた物理学の勉強を一時中断し、受験に向けボランティアに行っていたフリースクールや、母校の図書館で関係書を借りて読み始めていた。
 そして忘れもしない10月27日、娘たちが登校中、家からほんの200メートルのところにある急カーブで、停車している車を飛び越して横断歩道に侵入してきた大型バイクにそろってはねられるという事故がおきた。顔面蒼白で、血だらけ、引き裂かれた制服のスカート、車輪の跡がくっきりと刻印された脛、がたがた震えの止まらない娘たちを乗せた救急車の中で、私は泣いていた。そのとき、私の頭をよぎったことは、ああ、18年かけてした私の仕事がここで、今目の前で、音もなく消える。すべて消える。娘の死が、すべてを終わりにするのだと悟った。一生懸命育ててきた子どもも死んでしまってはおしまい。そのとき子どもはまぎれもなく私の作品で、今まで子育てを仕事にしてきた自分に気づいた。私は、非情にも娘のことではなく、自分自身の人生を考えていた。
 幸い娘たちは数日で、元の生活に戻り、年が明けた3月、長女の大学受験日と同じ日に私は、自分の試験を受けに娘とは別の大学に向かった。手のかかる末娘を交換留学に出す手はずも整えた。1年コースを終了後は、免許がとれ養護学校で働ける条件が整うが、最初の希望であった院を受験し、進学することにした。なぜならまだ末娘が、高校生であったからだ。そしてこの春、末娘の大学入学とともに、私は院を修了し、晴れて養護学校教員として働くことになった。
 現在の私の立場や、大学卒業後たどってきた今までの道は、大学時代の私には、想像もできないことである。もしこのような道をたどることが、わかっていたならば、どれだけ安心して、就職や結婚、子育てをすることができたであろう。就職すれば、いつか不本意に辞めなくてはならない時が来るかもしれないと怯え、一生結婚できなかったらどうしよう、第一子は少なくとも20歳代で産まなくては、生まれれば、しっかりと育てなければと、また私はまだ再就職をしていない、夫のようには収入を得られないと葛藤ばかりであったように思う。だが、今振り返ってみれば、結局たどってきた道は、物理学と障害児教育がらみのことばかりで、予測できたのではと思うほどだ。自覚はしていなかったが、自分には、やるべきことが、はっきりありそれを行っていたのだと思う。しかしやはりラッキーなケースだと思う。もしエンジニアと教員の順番が逆であったなら、実現は不可能であったろう。大学入学とともに男社会に紅一点で飛び込んだ私ではあったが、本当は敗退したのだとの意識はある。エンジニアとしてまっとうできなかったのであるから。
 以前、懸賞論文の授賞式で出会った女性が、「女は、50代からよ!」といった言葉が思い出される。ここまで長い道のりではあった。