私の再挑戦

Y・I(30代)

 私は現在33歳。8歳と5歳の息子がいる。非常勤の学童保育指導員をしながら、玉川大学通信教育部教育学部教育学科に昨年編入学し、小学校教諭を目指して勉強している。小学校の先生になりたいと思うようになったきっかけは、短大で取得した教員免許(中学校国語)を活かせる仕事をと思って始めた学童保育の仕事に就いてからである。それまでは専業主婦だった私がなぜ働くようになったのかというと、夫が突然死してしまったからである。夫が亡くなったのは2003年7月だった。呼吸器内科の医師で誰にでも優しく、優秀な医師で良き父親であり、良き夫であった。責任感がとても強い夫は、仕事が忙しすぎた。夫に完全に寄りかかって生きていた私は、突然、支えを失いボロボロに崩れてしまった。当時長男は4歳になったばかり、次男は0歳10か月だった。これからこの子達を私1人で育てていかなければならない、生活費はどうしよう。当時私は29歳で、この先長い人生を1人でさみしく生きてゆかなければならないのか…と世界で一番不幸な私と考える毎日だった。まったく周りが見えていなかったし、見ようともしていなかった。そして遂には「私が死ねばよかったのに、そうだったら子ども達も困らなかっただろう」と自分の存在価値も見失ってしまった。夫の所へ行こうと本気で思っていた。
 でも、毎日私の頭に中に浮かんでくる夫の最期の顔を思いながら、このままではいけないと考えるようになっていった。苦しんで苦しんで、救急車の到着前に息が止まってしまったのだが、その時夫の目から涙が流れたのだった。かわいい息子たちに会えなくなる悲しみ、まだまだ生きていたいのにどうして自分は死んでしまうのだろうという悔し涙だろうと私は思う。生きていたいのに生きられない人がいるのに、生きていられる私の命を粗末にしてはいけないのだと考えられるようになっていった…時間はかかったが。私がこうして生きているのには意味があることにやっと気がついた。生前夫に私は本当に幸せにしてもらった。だから私は夫への恩返しに私が出来る範囲で、夫の代わりに夫のしたかった事の続きをしようと思った。私は医師免許は持っていないので、仕事の代わりはできないが、夫が大切に想っていた人…両親、子ども…を大切にしていこう、夫が天国で安心できるようにすることが私の使命なのだと思えるようになってから、今のように明るく頑張ることができるようになった。
 小学校教諭を目指すようになったきっかけであるが、先にも述べたが学童保育の指導員になったことがきっかけである。指導員を始めた時は自分は子育てを経験しているので、子どもの接し方は理解しているつもりであった。しかし、どうしても「保護者」の目でみていて指導員にはなりきれていない気がしてきたのである。本物の指導員にならなければ子ども達、他の先生方、学童の保護者の方に対して失礼なのでは、と思い小学校教諭の免許を取ろうと考えた。
 大学での学生生活は確かに、とても大変である。家事、育児と学業の両立は考えていた以上に大変なものだ。しかし、スクーリングに参加してみると、色々な事を抱えて頑張っている人が沢山いたのだった。大学で出会った友人には本当に励まされている。大学で勉強を始めて私は本当によかったと思う。自分の過去を振り返ってみると、高校・短大時代にどうしてあんなに勉強しなかったのか…と後悔している。今の学生生活では勉強することが「楽しい」と心から思える。講義の中の先生の言葉が、私が探していたものだったりする。このような体験は若い時には無かった。今にして思うと、色々な人生経験、良いことも悪いことも通してきたからこそ、このように考えられるようになったのだと思う。
 辛い経験をした現在の方が、自分の器が大きくなったような気がする。世の中からみれば、まだまだ小さい器ではあるが…。これから教師になる上でも、辛く悲しい経験は活かせると思う。色々なことを抱えた子ども、保護者の気持ちを、より近くに感じることができると思うし、また、そうありたいと思っている。子育ての上でも、悩んで泣いている母親の姿よりも、頑張っている母親を子どもに見せた方が教育上とても良いと思う。
 女性が再挑戦しようと思う時は、幸せいっぱいな時よりも、もしかしたら辛い時の方が多いのかもしれない。悲しい事態に直面している時は、何かを始めようという気は起きないが、少し時が経ち、完全にではないが落ち着いてくると、何かを始めようと思えてくるのかもしれないと思う。辛い時・苦しい時こそ、再挑戦するチャンスがあるのだ。命ある人には皆、生きている意味がある。その人にしかない物を皆持っている。生きてゆくのが辛くなった時がやってきても、その後の人生が意味のあるものにしたいものだ。問題を多く抱えた現代を生きる全ての女性が、有意義な人生を送っていけたらいいな、と強く願う。