私のセカンドチャンス体験記

花園 ゆり子(40代)

 「先生は、どうして中国に来たんですか。」キラキラと輝いた目をじっと見据え、私の顔をのぞきこむ。
「みんなに会いに来たのよ。」と笑顔で答えると、恥ずかしそうにうつむく姿がそこにあった。
 長年東京で会社員として働いていた私が、教師になろうとは誰が想像しただろうか。
「明日から会社に来なくていいです。」
 2002年5月の連休明けに出勤した日に、社長室に呼ばれ告げられた。直属の上司もその社長室に座っていた。
「私、くびですか。」
「そうです。」
 呆れて言葉が出なかった。聞いてはいたが、これがリストラと言うものなのか。
 十二年働いた会社だった。アメリカ人が日本で三十年前に東京で起業した会社で大手の日本企業を顧客として英語企業研修を提供している会社であった。このため会社内の打ち合わせや連絡、会議も英語で行われた。
私の上司、同僚もアメリカ人を始め、英語圏からの人達が多かったため、毎日英語で仕事をしなければならなかった。私も学校で英語を勉強してきたものの、いざ仕事をするとなると大変な毎日だった。英語が下手と言われくやしい思いを何度も経験し、仕事の後、学校に通い何年もかけて英語力をつけていった。英語の勉強は、意外に楽しかった。お金も時間もかかったが、勉強をしてたくさんの知識が増えていくことに快感を覚えた。また、英語の学校でいろいろな人に出会えた。特に英語を勉強しに来ている人に、大学院を目指している人が多いことに驚いた。年齢層もさまざまで、研究している分野も多種多様だった。ビジネス専門学校で二年間勉強はしたが、大学で勉強をした経験がない私にとって、学問を専門的に学ぶ大学院進学の話など雲の上の話のようだった。しかし、それぞれアメリカやイギリスの大学院で学ぶ目標を掲げ、まっすぐな目で英語を学び続けるクラスメイトたちがとてもうらやましく思え、自分もいつしか大学で学びたいと思うように変わっていった。しかし、大学に入学し、学生になるということはそれほど簡単に決意できるものではなかった。たくさんの問題を自分の中で自問自答しなければならなかった。「仕事を辞めるのか」「英語力は十分ついたのか。」「何を勉強するのか。」「学費はあるのか。」「家族は、学生になることに賛成してくれるのか。」このようなことを毎日考える日々が続いた。色々な体験談を読んだり、人にも相談してみたが、どうしても学生になるその一歩が踏み出せなかった。
三十歳になるかならないかの時だったと思う。今思えばその時は、まだ新しい事を始める時期ではなかったのだと思う。その後、通信教育で、政治経済学を学びいずれは発展途上国で働きたいと思っていた私が、教育学を学ぶこととなる。大学で学びたいと思い始めた頃はまさか自分が教育を学ぶであろうとは想像もつかなかった。しかし、政治も経済も、発展途上国の開発もすべては一人ひとりの教育から始まるのではないかと、数年悩み沢山の資料を読み、人に相談をし、その後に得た結論だった。一九九九年の四月に創価大学通信教育部教育学部教育学科の二年生に編入した。仕事をしながらの勉強はハードだった。レポートを書くために教育書を何冊も読んだ。
念願の卒業を勝ち取ったのは、2002年3月19日だった。私の名前が書かれた教育学の学位証は、私の宝物の一つとなった。
リストラを告げられたのは、この二ヵ月後の事である。大学を卒業し学位を得たものの急に会社を辞めさせられ、いったい自分はこれから何をすればいいのか見当がつかなかった。日本経済は悪かった。株価が七千円台にまで下がっていた。就職活動もしたが、会社をリストラされた私はどこか会社に不信を持つようになっていた。会社に入ってもまたいつかリストラされる。このような考えが、どうしても頭から離れなくなっていた。
この後、前から好きで何度も遊びに行っていたオーストラリアに渡り、そこで出会った英語の先生に、「君は英語の先生になるべきだ。先生に向いている」と助言され、彼の紹介で三ヶ月の教員資格を勉強することとなる。これがきっかけとなり、その後オーストラリアのシドニーにあるマッコーリー大学の応用言語学(TESOL)の修士課程で学ぶ事となり2005年9月27日に無事、大学院を卒業し、修士学位も修得した。
そして、日本でも企業で英語を教えたりもしたが、2006年9月より、中国広東省広州市にある広東軽工業技術学院日本語学科で大学生に日本語会話、作文等の授業を担当している。応用言語学を勉強した中で特に第二言語習得に興味を持った。毎日が勉強であり勉強したことがそのまま授業に反映している。中国の学生達に会いにきたと私は心の底からそう思う。いつか発展途上国で何らかの職に就きたいと思っていた願いが、今現実となっている。英語の勉強から始まり、大学進学そして海外の大学院留学などあこがれてはいたが現実に成就するとは思っていなかった。そして、会社員から教員となった。私はこの仕事が天職と思えるほど、充実感とやりがいを強く感じている。
今年の目標は、また大学に編入し、通信で英語科の高校、中学の教員免許コースを始める。次は、日本で第二言語習得を研究し、また目がキラキラと輝いている子ども達と出会いたいと願望している。人と出会い人に導いてもらいながらこれまでの人生を開く事が出来た。なのでまた人と出会い喜びを感じる教師になりたいと強く思う。