セカンドチャンスをもう一度

古賀 清子(60代)

 「ぽっと出の主婦が、資格を得て、専門職につき仕事を得た実例。誰にでもできる、という実感をあたえることのできる講師」。これは、平成8年、狭山市企画課の女性政策を担当する部署で、若い専業主婦を対象に再就職を薦める講座の企画書のなかで、講師であるわたくしを紹介する稟議書の一文である。
 わたくしが、職についたのは、昭和35年7月から25日間であった。当時、教員や公務員でまれに結婚後も共働きをされる女性もあったが、既婚女性は家庭人であるのが一般的な時代であった。
 結婚後22年経った昭和61年、大学受験浪人の息子が「宅浪する」という。狭い家のなかで、専業主婦のわたくしの居場所がなくなってしまう。自分の行き場を探さざるを得なくなったわたくしは、その日新聞に募集の出ていた「日本消費者協会」の「消費生活コンサルタント養成講座」に応募することにした。大急ぎで消費生活に関する小論文を書いて送付したのだが、郵送料不足で戻ってくる始末。とほほな出だしだったが、とりあえず、養成講座を終了し「消費生活コンサルタント」の資格を得ることができた。61年11月のことである。
 資格を得たからといって特段、私の生活が変わったわけではない。朝、家族のためにパンを焼き、夫、娘、息子が朝食を食べ出掛けて行く。洗濯、掃除をし、10時からはわたくしの時間である。子ども文庫の世話人、視覚障害者の音読奉仕、図書館要求の市民運動、生協活動、大好きな料理作り、友人とお昼と毎日がキラキラと輝いて過ぎていくのだ。女性の自立、経済的な自立を、という世の中の風潮がまったく気にならないわけではなかったが、毎日が充実していた。
 63年隣市の消費生活相談員に任用された。国勢調査で市に昇格するにあたり、消費生活相談の窓口が開かれることになったのだが、月に1回2回の出勤で、わたくしの生活がさほど、変化することはなかったが、所属する団体で作成する高校生用の消費者教材の作成などに関わるなど、仕事に関わるということがはじまった。わたくし、45歳の再就職である。
 初出勤日、先輩の相談員に「判らない質問が入ってきたら、自信ありげに『御調べして、あとでご連絡します』と言って、誰かに聞きなさい」と助言を受けた。本当に「ぽっと出」の主婦だったのである。
 消費生活相談の相談内容は多岐にわたる。訪問販売による契約トラブル、食品の安全・生活危機の不具合・通信販売の問題・冠婚葬祭のもろもろなどなど。日々、自己研鑽なのだ。しかも自費、さすがにのんきなわたくしも「専門職って大変」
 平成4年、文部省婦人の社会参加支援特別推進事業という企画のなかで、「へんしんらんどへGOGO」という紙芝居作りにかかわった。消費者教育支援センターという財団で、幼児に向けた消費者教育のための教材である。環境という、当時としては、目新しいテーマで、対象が幼児とあり、幼児教育のどの領域におさめるのか、実際に幼児に理解されるのか、など苦労の連続であったが、作品は満足のいくものになった。この作品の発表をしたとき、消費者運動の大先輩である中村紀伊さんがわたくしに抱きついて、「あなた、いいもの作ったわね。消費者教材は楽しくなきゃ。子どもたちに沢山見せて」といってくださった。このときの、この言葉がわたくしの消費者教材作成への原点になった。
 これは、子ども文庫に関わったことからの出会いであったが、このあと、高校生・高齢者への消費者教材の製作にしばしばたずさわることになった、きっかけになった。
 平成10年10月、卵巣がん4期との診断で手術を受け、抗がん剤治療が始まった。その後3期Cとがんのステージの訂正があったが、治療に変化があるわけではなく、月のうち、2週間を病院で過ごし、あとの2週間は平常の暮らしでよいとのことであった。たまたま仲間の相談員が訪れているときの主治医の話で、仲間達のバックアップもあり、わたくしの2週間出勤体制が組まれ、週の2回の出勤をすることになった。わたくし達の雇用は、身分もなく、委嘱だけであったところからの苦肉の策でもあった。9回の治療と再度の手術ののち、全面的に復帰することができたのは、幸運以外のなにものでもなかったと感じている。
 仲間達とは、自分達の置かれている労働環境の不当さから労働運動を始めるに至る。その結果、現状でも決して満足できる状況とは言えないが、理事者側と対等に交渉のできる労働組合を結成し、毎年、消費者行政への提言と労働交渉ができるという、大きな収穫を得ている。
 消費生活相談員という仕事と子ども文庫、図書館運動に関わる日々が続き、定年後の夫と平穏な生活を営んでいた。子どもたちも独立し、夫と大好きな東南アジアや沖縄への旅を重ねていた。
 平成18年6月、卵巣がんが再発した。最初の治療終了から7年半を経過している。5年なにごともなければ、完治と考えていたので、ひたすら驚いてしまった。再度、化学療法ということになった。前回同様、月のうち半分の出勤でしのいでいたが、しのぎきれず、退職した。わたくしも65歳になっていた。
 卵巣がんは再発しやすいがんだといわれる。再発後の余命は2年とのコトだ。どうもあとはあんまりなさそうである。でも、泣いていて手をこまねいていてもあんまり楽しくはなさそうである。さて、なにができるのだろうか。
 わたくしの時代は女性が仕事を続ける状況は困難だった。それでもトライしつづけた人達がいた。また、社会的な活動に思いをかけた先輩たちもいた。わたくしには何が残っているのだろうか。子ども文庫の活動は仲間達がひたむきである。まだ、わたくしの町には「子どもの読書推進活動計画」がない。いま、学校図書館の現場で、子育て支援のところで子どもに本を手渡そうとがんばっている人達がいる。たとえ、余命がわずかでも、このことに関わり続けることが、わたくしの「セカンドチャンス」の獲得になるのだと考えている。