女性の再挑戦体験談

平田 はつみ(50代)

 もう、三十数年前のことで、社会が大きく変化してきた実情を考えると、私のこれまで歩んできた人生の道程が「女性の再挑戦」という大きなテーマの参考になるかどうかわからない。しかし、仕事の再挑戦をして自分の人生を豊かに創ってきたという自負は持っている。
昭和四十八年、私は大学を卒業して地元の市役所に就職した。親元で暮らす数年間、少しでも親孝行らしきことをしてから結婚して家を出ようというのが私の描いていた人生設計だった。当時交際中の彼が社会人として安定した生活ができる目処も立つだろうという思いもあったのだ。
結局は、二年間、市役所の議会事務局で事務員として働いた。働いて給与を得たことでやっと自立したという感慨はあったが、役所事務やお茶汲み、その他細々とした仕事にはあまり魅力は感じなかった。周りからの「田舎の公務員は恵まれているよ。誰でもなれないのに勿体ない。」という声を振り切って、辞表を出した。
昭和五十年五月五日、結婚して広島市に居を持った。私は、夫の給料だけで上手にやりくりする専業主婦を夢見ていた。ところが何としたことか、二週間で専業主婦の座に飽きてしまった。同じような生活の繰り返しを惨めと思うようになっていた。「何のために大学まで行って勉強をしたのか。私の人生はこのままで終るのだろうか。」と自問自答する苦悩にもう耐えられなくなった。夫も、「外で働く方が今よりきっと生き生きするだろうから。」と仕事を持つことを勧めた。そこで、仕事を求めて向かったのは、広島市の教育委員会だった。何しろ、私が持っている唯一の資格は中学・高校の国語の教員免許だったのだ。
幸いなことに、私はすぐ小学校の臨時教師として三年生の担任になれた。出産をされる先生が現場復帰するまでの四ケ月足らずである。大学時代、サークールで子ども会活動をしていたとはいえ、授業といえば、中学校の教育実習のみの体験だけだったので、不安はあった。しかし、怯むわけにはいかない、ここが正念場だと自らに言い聞かせながら、毎日ギャングエイジを相手に一生懸命だった。未熟さ故につい大声を張り上げてしまう授業、喧嘩をして屋根に登ったり、腹を立てたり、泣きわめいたりする子もいて、なかなか思うようにいかない生徒指導、帰宅する頃にはいつも喉ががらがらになっていた。それでも、不思議なことに教師を止めたいとは一度も思わなかった。そして、任期が終わる頃には、臨時教師ではなく、本採用になりたいとまで思うようになっていた。まさか小学校の教師として通用するとは夢にも思っていなかった私に、初めて担任をしたあの三年生の子ども達が「小字校の先生になりなさい。」と熱いメッセージをくれたような気がした。   
それからは、教育委員会の指示で、数ヶ月の期眼付きで転々と数校に勤務した。その間何としても小学校教諭の免許を取得せねばと玉川大学の通信教育を受講した。図書館に通いながらレポートを書いては送った。単位がほぼ取得でき、残すは夏季のスクーリングだけと思った矢先、私は妊娠していた。免許取得も採用試験も一年延期と夫と決めて、久々の専業主婦に戻った。出産という大きな目標と教師になるという夢があったので、充実した私流の産前体暇を過ごした。
昭和五十一年七月、男児を授かった。息子はかわいくて愛おしくて、私は母となった幸せに満ち溢れていた。それでもやはり、教師として働くことは諦めていなかった。夫は私の夢をよく理解してくれていたが、それぞれの両親からは反対されるだろうと非難を覚悟していた。しかし、本当に有り難いことに私の無謀ともいえる計画をみんな温かく受け止めてくれたのだ。 
いよいよ昭和五十二年七月、玉川大学のスクーリングに夜行列車で出発した。まもなく一歳になる息子は私の大分の実家に、夫は広島に、家族離散の生活が始まった。鬼嫁、鬼母だと自らを責めつつも、一度きりの白分の人生を切り拓こうと情熱に燃えていた。一ヶ月近いスクーリングの間、教育について全国津々浦々から集まった勤労学生と共に学んだ。採用試験のために広島を往復したのもこの間だった。
 そしてついに、昭和五十三年四月、私の夢は叶った。正真正銘の教師になれた。二十八歳、子持ちの初任者であった。
 あれから二十九年、私は家庭の都合で校長職を退き、故郷の大分に帰ってきた。故郷を発つときは教職に就く人生を想像だにしなかったが、思えば多くの出会いが私の人生を創るきっかけをくれた。また、夫を始めとして家族や両親が私に多くの力と勇気を与えてくれた。そして何よりも若さは、強く素晴らしいとしみじみ思う。一度きりの人生は、自分のために自分が創っていくものなのだ。