女性のセカンドチャンス

河野 操(50代)

 昭和53年3月、私は福岡教育大学を卒業と同時に小・中・高等学校の教員免許を取得し、4月から故郷である広島の小学校の教諭として就職しました。自分自身が良き教師に恵まれて育ったため、教育の可能性のすばらしさにあこがれ、小学生の頃から教師という職業に就きたいと思っていましたので、とても仕事が楽しく充実した時期でした。しかし、実際に子供を出産し、家庭で赤ちゃんの時から育ててこられた保護者の方々は教師以上に子供のことをよく知り理解されていることについても、すばらしさを感じ、私自身も子供を出産し、家庭でも子供を育てることが、私自身の成長のために必要なことであると考えるようになりました。
 昭和55年3月、私は結婚し、夫の居住地である福岡に転居し、4月から福岡の中学校の教諭として就職しました。約1年前に婚約していましたので、その間に転勤するための就職試験にチャレンジすることもできて幸運でした。広島から福岡に転勤しても、児童生徒のかわいらしさや、学校教育の基本は同じですから、大きな問題もなく、福岡での新しい仕事にも慣れ、新婚生活を楽しんでおりました。
 昭和56年1月に長女を出産し、昭和57年3月に長男を出産し、昭和58年10月に二女を出産しました。産前6週間の産休や、産後1年間の育児休暇なども活用し、子供が1歳になると保育園に預けて、夫婦共働きの生活を送っておりました。しかし、核家族で近くに親類もいない状況で、子供がはしかやおたふくかぜなどの病気にかかってしまうと、保育園でも預かってもらえないので、夫婦で交替で仕事を休まざるを得ないこともありました。私が仕事を続けることに対して反対していた夫の母や姉と、何とか仕事も続けながら子育てもしたいと欲張っていた私の間で、板ばさみ状態だった夫がノイローゼになりそうだから、私に仕事をやめて欲しいとのことで、仕方なく私は仕事の継続をあきらめることにしました。実家の母が生きていれば協力してくれたかもしれませんが、私の母は病気のため48歳の若さで、すでに死亡してこの世にはおりませんでした。
 昭和59年3月、私は3歳の長女と、2歳の長男と、5か月の二女の育児に専念するため福岡の中学校教諭の仕事を退職いたしました。共働きをしていた頃にくらべると時間的に余裕が出てきたため、精神的にも余裕が出てきました。同じ年ごろの幼児を育てている母親対象の育児セミナーを福岡市の婦人会館で受講したり、その当時、NHKテレビで放送されていた「お母さんの勉強室」などを見たりして、乳幼児心理学や保育学などに興味が湧いてきました。せっかく3人もの子供を産み育てるという貴重な体験をしている時に、今まであまり勉強したことがなかった、就学前の時期の子供達の精神発達などについて専門的に学びたいと思うようになりました。子供達が昼寝をしている時や、夜、子供達が寝静まった時間を利用して、乳幼児心理学の本を読んだりして勉強して大学院の入学試験にチャレンジしました。
 昭和60年4月、福岡教育大学大学院教育学研究科の修士課程に入学し、応答的保育について学び、3人の子供達の会話を記録して分析したりし、その研究の成果を日本保育学会で発表したり、福岡教育大学の研究紀要に発表したりしました。3人の子供達は昼間は保育園にお世話になっていましたが、お陰様で順調にどんどん成長し、小学校に入学し、私の興味も再び学校教育の方に戻っていきました。乳幼児期の言葉の発達の研究をしたことは、精神的な障害を持った学齢期の子供たちの教育にとって生かせるのではないだろうかと考えるようになりました。そして、今度は障害児教育について勉強したいと思うようになりました。
 昭和63年4月、福岡教育大学言語障害教育教員養成課程に入学し、障害児教育について学びました。そして、養護学校教諭の免許を取得しました。
 現在は、福岡市立東福岡特別支援学校で校内介助員として、自閉症やダウン症など精神発達の障害を持つ児童生徒の介助の仕事をしています。小学部、中学部、高等部まであり、6歳から18歳までの幅広い年齢層の子供達がいますので、私が今まで家庭で3人の子供を育てながら学んできたことや、かつて小学校や中学校の教諭として働いていたことのすべてが生かせる仕事なので満足しています。
 子供を保育園に預けて働くことに悩んだ時期もありましたが、子供達にとって保育園は楽しい場所だったようです。長女が保育士の道を選び、保育士になったことが私の一番の喜びです。長男は教師の道を選び、私がまっとうできなかった道を今歩んでいってくれています。二女は食にかかわる仕事がしたいと頑張っています。3人の子供達の母親として過ごしたことが、乳幼児期の子供の精神発達や障害児教育についての関心の広がりにつながっていったと思っています。一度はあきらめた仕事でしたが、いつか再び育児から解放された時には再就職したいという夢を持ち続けたことがよかったと思っています。そしてセカンドチャンスをつかむことができた最大の要因は、核家族の生活の中で夫が家事や育児に協力的であったことと、経済的にも精神的にもいつも私の支えとして夫がいてくれたことだと感謝しています。