チャンスはどこにでも、何度でも
堀内 晴美(40代)
私は今、三つの仕事を掛け持ちして働いている。午前中はパソコン教室のインストラクターとして、午後は私立高校の図書館で司書教諭、月に何度かは町の教育委員として。そしてこれまでに、公立中学校教員、英会話教室講師と職を変えてきた。家族や自分の環境の変化によって変わらざるをえなかったのだが、この原点は高校の担任教諭の言葉にあると思う。
県立の女子高校の通っていた2年時、ホームルームで「女性が社会で働くために」という議題で討論会が行われていた。担任の女性教諭がこんな体験談を語った。「私が大学生の時は学園紛争の真っただ中。講義中に突然数人の学生が教室に突入し、教授に「今の体制がおかしいとは思わないのか。」と詰め寄りました。その時、教授は「君たちの言っていることは理解・賛成できる部分もある。だが、私には家族がいて職を失うわけにはいかないのだよ。」尊敬する教授が家族のために信念を曲げてまで働かなければならない。そんな負担になる家族になりたくない。好きな人が職を失っても、一人になっても、生きていけるような職に就こうと思ったのです。」
教育学部に進学した私は、よく学びよく遊んだ。バブルに浮かれながらも取れるだけの資格も取った。幼・小・中・高の教員免許、学校図書館司書教諭、社会教育主事、ついでに英検。どんなダメな旦那にあたっても、あるいは一生独身でも生きていけるように。
卒業後、小さい頃からの夢がかなって中学校国語科教諭として赴任した私は、国語科指導の勉強のために自主サークルにも入った。大変だが充実し希望にあふれていた教員生活。あの頃は定年までずっとこのままやっていこうと思っていたし、やれるはずと思っていた。
2年目に同じ中学校の教員と結婚した。これで遠隔地への転勤もない。だが、国語科のサークルは遠くてもう行けない。子どもが生まれ、1歳前から保育園へ通わせていたが、その送迎や帰りの遅くなった時は同居の義父母に見てもらわなければならない。私はあの頃、学校で、家庭で、一日何十回と「すみません。」と謝り続けながら働いていた。均等法第一期生だったが世間は働く女性に冷たかった。結婚後6年間頑張ったが「もう限界!辞めたい!」と心身ともに切れそうになった時、主人の海外赴任が決まったのだ。
海外の日本人学校勤務。条件として妻は仕事を辞めること。現在は休職で良いそうだが、当時は絶対に辞めないとだめだった。これ以上あの環境で働き続けるのは無理、と思っていた私の心の中はスッキリしていた。
ベルギー滞在中は初めての専業主婦だ。自分の手で育児をし、フランス語・料理・ボビンレースなどを習ったり、ボランティアで日本語を教えたりして4年間を楽しく過ごした。教員以外の様々な職種のお友達もできた。
4年後に帰国、私には職がない。臨時採用で学校へ戻る選択もあったが、娘の「ずっとお家にいて欲しい。」という言葉に心を動かされた。時間があったので役員はたくさん引き受けた。交通安全母の会会長、スポーツ少年団副会長、PTA副会長。ここで地域の多くの方と知り合った。フルタイムで働いていた頃は、近所は知らない人ばかりだった。
この頃ウィンドウズが発売され、パソコンが広く出回り始めた。パソコンを買って操作を覚えるために教室にも通った。
ベルギーでフランス語を覚えた我が家の子どもたちの語学力を維持するために、フランス語教室を探した。しかし近くにはなく、英会話教室へ通わせた。週に二回、子どもを通わせるために車で送迎し終わるのを待つのが億劫になり、自分で教えたらどうかと思った。お友達も一緒だったら楽しいのではないか。家にいられて子どもの世話もちゃんとできるし。
英会話教室を開くための試験・研修を受け、帰国して2年後に自宅で開くことになった。自分の子どもと友達だけでこじんまりと、と思って始めたが、年々多くの生徒が集まるようになり80人を超えるまでになった。順調な教室運営だったが、5年目の秋、私に先天的な心臓病があることがわかる。手術が必要だった。半年間の休教室も考えたが、手術の結果がどうなるかわからない。受験生もいて責任のないことはできないと残念ながら閉塾した。
手術は成功、術後も順調で半年後にはこのまま家にいるのは退屈と思い始めていた。子ども達は高校生と中学生に成長し、自分の生活をそれぞれ満喫している。ネットで仕事を探した。フルタイムでなく、力仕事でなく、資格を活かせるもの。近くの私立高校で司書教諭を募集していた。条件もピッタリ。面接に行ってその場で採用が決まり、勤務を始めた。中学校での図書担当の経験とパソコンの知識が役に立っている。
半年後、習いに行っていたパソコン教室の塾長から電話があった。「生徒が増えたので資格を取って働いてほしい。」と。高校の仕事は午後からなので午前中だけなら両立できる。試験・研修を受け、半年後にパソコン教室でインストラクターの仕事をするようになった。
そして昨年、かつて一緒に学校のPTA役員をやった方から、「町の教育委員をやって欲しい。」との電話があった。仕事をしているから無理とお断りしたが、子どもたちが育った町の教育のお手伝いをしてほしいと説得され、教育委員になって1年がたつ。
現在、三つの仕事をしているので、よく「大変ですね。」と言われる。実際、家でのんびりしていることはあまりないが、そんなに大変だと思ったことはない。自分の出来ることをしている時は、忙しくても楽しい。出会いがあり、発見があり、充実がある。
子どもの頃、将来の夢は教員だった。その後は、出来ることをしているうちに、仕事が自然に集まってきたような気がする。前に取っておいた資格が後になって役立ったり、周りの人に取り立ててもらったりして今がある。チャンスはどこにでも、何度でもある。