私のセカンドチャンス

亀田 多香子(40代)

 朝日新聞で「女性のセカンドチャンス」の応募を知りました。
日本女子大学にはご縁があって、昨年、附属中学に娘が入学し、また、私自身も13年前地方在住の32歳の時に通信教育の存在を知り児童学科に入学し5年かけて卒業、その時に取得した幼稚園・小学校の免許資格で第二の人生を歩み今に至っています。
私は1987年に跡見女子大の美学美術史学科を卒業し、池袋にある東武百貨店の美術部に勤務しました。当時の配属先の部長が日本女子大卒業の方。また私の教育係の先輩も日本女子大卒の方でした。美術館を持つ新しい百貨店オープンを3年後に控え、私は母校に学芸員の資格取得のため週2日通学し2年かけて取りましたが(実習先は渋沢栄一記念館でした)その資格を十分発揮することなく百貨店では6年が過ぎました。30才を前に趣味で学んでいたシナリオの世界で身を立てようと29才の12月に朝日新聞で倉本聡が塾長の富良野塾の10期生募集記事を見つけ、応募しました。入塾にあたり難関突破ということで友人のTBSアナウンサー長峰由紀さんが自身の新聞コラムに載せてくれたり周りをびっくりさせるような幸運な転機を迎えたようにみえました。それを機に退職し、翌年4月から10期シナリオライター生として富良野の地に参りました。しかし、29才の遅い青春。家族や友人の心配や励ましをたくさん頂きながらの希望ある出発だったのに、富良野の雪解けと遅い春、短い夏を農作業と倉本先生の講義で充実した日々を過ごしながらも情けないことにそこでの生活や人間関係やこれからの自分の未来像に悩み、たった半年で東京に尻尾を巻いて帰ってきました。私の人生で本当に多くの方々にご迷惑をおかけした大きな大きな挫折です。救われるように学生時代からの友人男性と周囲の反対を押し切ってその年に結婚し主人となった人の仕事の関係で岩手県北上市に居を移しました。主人以外知り合いのいない孤独な北国での結婚生活が今まで生ぬるい生活ばかりしてきた私にはとても辛い日々でふさぎ込むばかりでした。その私に生活に根を張り力を与えてくれたもの、自分が押しつぶされそうになった時助けてくれたのは、そこで出会った人たちと持っていた資格でした。百貨店美術館では発揮できなかった資格が北上市文学館でお声をかけて頂いたり、花巻市の萬鉄五郎記念館でボランティア解説員として生かせる場ができたりと私が再び社会の中で少しでも役に立てる場を頂けたことが自信を取り戻すきかっけとなり何より生きる希望となりました。萬鉄五郎記念館では大学3、4年でお世話になった日本美術史のゼミ、青木茂先生との再会もあり、どれだけ私は嬉しかったことか。
 学芸員としての仕事も教員資格があった方が良いのではと考えたことや子どもが生まれ子育てをしながら学べる通信教育と出会い、自分の子育てに役立てばと学び始めた児童学科での勉強。レポートでは今までに経験ない位調べ、現場に出向いてレポートを書きました。またサマースクーリングでは娘を実家の協力でみてもらい、また学内のナースリ―に預けたり、一人では学べない状況を周りや家族の協力を得てなんとか5年かけて資格取得、卒業しました。実習時は娘を岩手に残し夫に幼稚園の送り迎え、お弁当を一ヶ月お願いしました。定期試験の時もまた大変でした。冬の猛吹雪の中を主人に2時間かけて盛岡の会場まで送ってもらったことも数回ありました。
 生まれて初めて必死になり、周りの方の協力があってこそ取得できた資格です。
 「信念徹底・自発創生・共同奉仕」この通信教育の5年間で実践して身に付けさせて頂いたことに感謝致しております。
 娘の小学校入学前に東京に戻り、偶然にも実習でお世話になった豊明幼稚園の森田園長先生からお声をかけて頂き国本幼稚園に非常勤講師として仕事をさせて頂き今に至ります。今その縁で2歳児保育専門として8年目を迎えるところです。
美術史を学んだ自分、シナリオを学んだ自分、農作業で汗をかいた自分、知らない土地で孤独を知った自分、出会った人々の温かさ、日本の四季を五感で北国にいて知った自分、目標を持って学ぶことが未来を作ると知った自分、得た資格が生かされる幸せを知った自分。自分にとっての転機は、全て人との出会いでした。
これからの私は幼児教育の分野での幅を広げるためにもっと勉強を重ねたいと思います。幼稚園という幼児教育の現場での積み重ね、富良野で出会った人たちの環境教育への取り組み、そのボランティア、もともと好きな美術への興味、全てがつながるように模索しながらも自身のスタイルを作っていきたい。