学びが開くチャンスの扉
Y・K(40代)
平成六年三月。私は宮城県の公立高校の教員の職を辞した。先生という仕事に憧れ学生時代の全てを通じてまっしぐらに目指してつかんだ仕事を、二十九才のその春までの全ての時間を捧げた仕事を辞めたのだった。人生の相方が研究職に就くことになり他県へ移動することが直接のきっかけだったが、“お母さんになりたい”との思いが胸一杯に込み上げて来たことが大きかった。他の要因によってではなく考えたあげくの自分の決断で、仕事を辞めたのだった。
新たに移り住んだ群馬県には知り合いは一人もいなかったが、学生時代も教員時代も男性に負けてはいけないと気を張っていた男女雇用平等法一期生だった私は、その長年の緊張から解放され、重い責任が肩から取り除かれ、初めの数カ月は心から楽しく専業主婦として暮らすことができた。仕事に燃え家庭を守ってくれる相方にも恵まれていたため、家を整え、おいしいものを作って待つ日々は、単調ではあったが、何事も起こらず穏やかだった。その日々の中で初めての子供を妊娠。元気な男の子を出産し、育児に懸命に取り組む生活が始まった。待望の子であったし仕合せ一杯のはずだったのに、家事と慣れない育児を一手に引き受けたためもあり、その重い責任につぶされそうになっていった。さらに、自分が参加しなくても社会がいつも通りに回っていくことへの言いようのないいらだちや焦りも募っていた。チャンスを与えられもしなかった母たちの時代の女性とは異なり、男性とほぼ同じチャンスを与えられてきた恵まれた私たちの世代だが、だからこそ余計に、妊娠出産で母になった時の相対的な剥奪感が大きくなったのだろうか。幼い子を抱え、自分の自由になる時間が奪われ、行動も大幅に制限され、名前さえなくしたようなうつうつとした気持ちに私はなっていた。
そんな時、前橋市が推進していた「子育て支援センター」の案内が私の目に飛び込んで来た。赤ちゃんを連れてきていいとの文字に心を躍らせながら、でもおそるおそる出かけて行った私は、そこで運命の出会いをすることになった。そこには、赤ちゃんを背負いながらコーラスを楽しむ人、人形劇をする人、ボランティアをする人たちがいたのだった。“私なんてボランティアの人に来てもらいたいくらいなのに、この人たちは幼い子供の世話をしながらボランティアをしている!”という衝撃が走ったことは忘れられない。その皆さんの顔が楽しさいっぱいであったことも印象深かった。赤ちゃん連れでの外出は、いつも大荷物になる。家出をするのかと思うほどの大荷物と汚れものでいっぱいになる煩わしさをも振り切り、そこにはいきいきと毎日を楽しむ人たちがいたのだった。
さっそく、コーラスグループに入れてもらい歌いだした私は、新米母としての育児の悩み相談をしたり、社会から疎外されているような気持ちを共有する仲間にまで出会えた。悩みは話すだけでも軽くなって行くし、自分の視点では気づけなかったことに気づかされる。常に男性に取り巻かれ勉強し仕事をしてきた私には、女性が連帯したときの力の凄さをも教わる経験ともなった。そのメンバーたちと老人ホームや保育園でコーラスを披露するというボランティア活動へと一歩を踏み出していくうちに、人形劇にも借り出されていき、座付き作家として活動するだけでなく、気づけば人形劇サークルの代表として渉外担当までしていた。群馬県が子育て支援の綱領づくりをする際の委員も仰せつかり、母代表として多くの会議にも出席させていただいた。幼い子供を「預けます、預かります」という制度を作り預け先のない母親がほんのつかの間休めたり、育児が一段落ついたベテラン母のみなさんに就業の機会ができたりする制度の発足に関わることまでできた。
こんな充実した毎日の中で、第二子を妊娠、出産。子供が二人になったのに、育児の負担はなぜか軽くなっていた。群馬県で生活の地盤がようやくできつつあったのに、今度は相方が海外赴任となりアメリカで暮らすことになった。上の子供は六歳になっていたため、引っ越し早々現地の小学校に入学となり、てんてこ舞いの最中に、あの“ニューヨーク爆破テロ事件”が起こったのだった。歴史上初めて本土が外から攻撃されたアメリカの動揺は激しく不穏な空気の中で暮らすことを余儀なくされてしまった。しかし、やはりここでも、“人とのつながり”と“学ぶこと”が私を助けてくれたのだった。カリフォルニアでも、現地在住の日本人と人形劇サークルを作り、その地区の教会のクリスマス会で発表させてもらったりした。教会を支えるアメリカ人のみなさんとも心の通じ合う交流を持てたことは、幼かった子供の心にも生涯残りそうな感慨深い思い出となった。
帰国後、この狭い地球で暮らす私たちに必要なことは「人はみなどこでも同じと共感し、考えを伝え合い、つながっていくこと」だと考え翻訳の世界へと飛び込んだ。機械文明に押しつぶされそうな中、懸命にことばの力を信じ活動する人たちがそこにはいた。世界中の同志とつながっていく中での出会いに私はわくわくし、ひたすら学び続けている。自分の非力を思い知らされる日々でもあるのだが、反って勉強への意欲が沸き、下の子供が小学校へ入学した昨年、念願の大学院受験にもチャレンジすることができた。合格させていただき、平成十九年春からは大学院一年生として学んでいる。母学生の誕生である。二十も年の離れた先輩や同級生の学びの力は感動するほどのもので、教えられることの多い楽しい日々を送っている。初めに大学を卒業してから、あっという間に二十年の年月が流れていた。
人は人によって傷づくこともある。それでも人は人によって救われ、助けられ生きていくことを信じたい。固定した考えを持たないように自戒し学び続けながら、自分の可能性にチャレンジし続けて、開くチャンスの扉には常に新鮮な気持ちで向かい合いたい。平成二十年二月。次の扉はまだ遠くにしか見えず、夢はまだ夢のままのものが多いけれども、今日も私は辞書を引き、祈りを込めて文を書く。