明日に向かって
E・O(60代)
「まあー、なんて愛らしい素敵な押し花カレンダーだろう!」、思わず歓声をあげてしまった。細かい手作業による小さな愛らしい花々が自然の色そのままに和紙風台紙の上に貼られているではないか。ここはフィリピン、ミンダナオ島。ヤシの葉が真っ青な空に高くゆれ、南国の花々が咲き乱れ、白い波が打ち寄せる美しい島。かつての大戦でたくさんの人々が犠牲となり眠っている島とは到底思えない今は全くの平和な漁村。1994年夏、夫の仕事の関係で訪れた南海の島であった。
当時夫はフィリピン政府の要請を受け、フィリピンの地場産業育成の仕事をしていた。夫の当時の仕事の関係で共に訪れた南の島の工場での、これが私と「卓上押し花カレンダー」との出会いであった。
磯の香りのする小さな、工場とも呼べないようなニッパ椰子の葉で葺かれた屋根の下で紙を漉いたり、押し花をピンセットで貼り付けたりと素朴で緻密な様々な作業が大勢のフィリピンの若者によって行われていた。工場の裏手には野原が広がり、押し花の材料となる野生の愛らしい小さな花々が私たちを歓迎してくれた。
私が魅せられたカレンダーは、ミンダナオ島に咲く新鮮な花々、野生の種子、ココングラス、アバカ、パイナップルや砂糖黍の葉、バナナの樹皮、等々を完全乾燥後プレスして出来上がっている地球にやさしい100%無公害の美しく愛らしい「卓上押し花カレンダー」であった。さらに、この会社ではフィリピンの子供たちへの教育資金援助活動も行っていると聞かされた。貧しさ故に、学びたくても学校へ行けない子どもたち。浜辺でキラキラと輝くすんだ瞳で私たちに笑いかけてくれた何人もの子供たちのために少しでも力を副えることができればとの思いから、帰国後友人・知人にこのカレンダーを紹介し、援助活動に協力してもらった。細々とではあるが、こんな形でのボランティア活動を仕事の傍ら14年間続けてきた。
これまで私は日本語教師として20余年にわたり国の内外で主に発展途上国の人々に日本語を教えてきた。夢中で過ごした日々は瞬く間に過ぎ去り、還暦を迎えた時、はたと立ち止まった。そろそろ後進に道を譲るべき時がきている、と。それからは第2の人生をいかに生きるべきか思い悩む日々が続いた。私らしい新しい生き方を求め、やりがいのある仕事、なにか他の人の役に立てるような仕事を、と考え、今の自分に一体何ができるのか、自分の中に日本語以外に社会に通用するものがあるだろうか、などなど本を読んだりたくさんの人の話を聞いたりして模索した。そんな時、ふと部屋の隅においてあるこの愛らしいカレンダーが目に留まった。“そうだ!こんな素敵なものをもっと、もっと日本の人々に紹介しよう。”押し花カレンダーによって自然のやさしさを伝えることで人々のストレスの解消になり安らぎを感じてくれれば、との思いが頭の中を駆け巡った。同時にこのカレンダーの購入がフィリピンの子供たちの教育資金援助活動を支援することができるのであれば一石二鳥。まさにわたしのめざす生き方とぴったり合致する、と全身が震えるような感動を覚えた。
今までボランティア活動を同時に仕事としても成り立たせるためにはどうしても会社をつくる必要があった。折しもその頃法律が変わり、「0円で会社をつくれる」とのキャッチフレーズのもと起業を勧める声があちこちできかれるようになった。そこで夫に相談し会社をつくってもらった。夫は本を何冊も読み、関係各役所に何度も足を運び、アドバイスを受けながら何とか2か月後の2006年5月には会社を立ち上げることができた。それからは販路を拡大すべく、大手商店、会社、デパート等への売り込み、インターネットでの販売など、本格的に仕事をスタートさせた。第2の人生のスタート故、夫との二人三脚で決して無理せずゆっくりと身の丈に合った活動を、と肝に銘じ、静かに次へのステージにジャンプした。
人に物を売るという経験が全くなく、本当に0からのスタートであった。見るもの聞くものが全て知らないことばかりで、最初は悔しい思い、思わぬアクシデント、不本意な軌道修正等々、前途多難であった。しかしそれだけに、購入して下さった方々に喜ばれ、感謝された時の喜びは何事にも換えがたく本当にうれしくなる。それとともに微力ながらあの澄んだ瞳のフィリピンの子供たちの役に立つことができる幸せを噛み締めている。この仕事を通して道の人々との出会い、旧知の人々との邂逅などの体験は私の世界を広げ大きな財産ともなっている。
“名も知らぬ、遠き島より流れ寄る、椰子の実一つ”
流れ着いた椰子の実(カレンダー)がしっかりとこの日本に太い根を張り、人々の安らぎとなれるよう今日も明日も頑張ろう。