ホームレス支援活動に関わって
清水 悦子(60代)
2002年3月、60歳の定年まで3年を残してN市役所を退職した。定年まで働くことを当然と思っていたのに自分でも思いがけない選択だった。
前年4月に転勤した職場は仕事量が多いのに人が増えず、さらに制度変更などで忙しく、そのうえ今までの疲れでひとりの職員が長期休職に入った。自身の係長としての仕事のほかにその仕事もあり、行事で日曜出勤しても振り替えの休みもとれない。増員要求を当局に訴え、何回もの交渉でアルバイトを入れることで決着がはかられたが、相変わらず残業続きで首の頚椎が痛むようになり、年明けにはあまりの痛さで眠られなくなった。医師は頚椎がつぶれているので安静にするようにとのこと。心配した夫は仕事を辞めるように言う。しかし、働くことが好きで、どうしても働き続けたかった。
わたしが働き始めた頃は女性の働く条件が現在より厳しかった。ふたりの娘を育てるために無認可保育所や学童保育所つくりに関わり、職場では組合役員もして男女差別是正をはじめ、産休16週間など働きやすい環境を整えてきた。
仕事も、男性が殆どで転勤希望者の少ない生活保護を希望して、N市では、女性で2番目のケースワーカーになり、最初の女性保護係長と、たえず道を切り開いてきた。
しかし、最後の望みだった4月からの人員増が認められないことが決まり、闘おうとしない労働組合の消極的な姿勢にも失望した。体を治し、その後、体調が回復したらきっとまた、わたしを活かすものが出てくるに違いない。そう考えて自分を納得させた。
その年の秋、増加するホームレスのためN市にはじめてできたS緊急一時宿泊所から、市の委託を受け運営する法人の職員は生活保護法をよく知らないので、指導員として職員に教えながら働いてほしいと話があった。勤務条件はゆるやかなものでよいから是非という。大好きだった生活保護の仕事。その頃、公園などでホームレスが増えつつあるのをみて、何とかしたいという思いもあり、同年10月の開設と同じくして、体力を考慮し嘱託として週3日、7時間労働で働くことになった。
入所期間は原則として6か月。その間に次の行き先を決めなくてはいけない。病気で働けない人は生活保護申請して施設や居宅へ、健康な人は自立支援センター入所、老人は老人ホーム入所と、その人に最もふさわしい処遇を考える。しかし、アルコール依存症や多重債務で逃げている人もいてすんなりといかない。なかなか本心を言わず偽名や嘘の本籍を言う人もいた。法人職員は若く、親のような年齢のホームレスの気持ちがわからずトラブルになることもあった。そんな時に、相手を決して否定せずありのまま受け入れること、辛い目に遭って人間不信になったり意欲がなくなった人の心に寄り添いながら処遇することを繰り返し説明し、共に行動した。また、音楽会、料理教室、入所者向け通信の毎月発行など、入所者が、入って良かった、相談できる相手がいる、ひとりではないと思えるメッセージを伝える努力を続けた。
入所者に同行して生活保護申請をする福祉事務所では、生活保護法の理解が不十分な職員がいて、認められる筈のものを不可という人もいた。法の趣旨を説明し、布団や家具什器の認定、居宅への移行などを実現させる中で、その後はスムースにすすむようになった。
ホームレスの実情を知らず、汚いとか怠け者とみる偏見をもつ人がいる。しかし、中卒後、集団就職で田舎から出てきて職を転々とし、その後、建設や土木現場などで高度成長時代を支え、景気悪化と高齢で働く場がなくなりやむなく路上に放り出された人が殆どで、自分に可能な職さえあれば働きたいと願っている。知人に、衣類などの寄贈を依頼する中で理解者が増えつつあるのは嬉しいことである。
せっかく生活保護または自力で居宅生活になっても、生活費のやりくりができなかったり、ギャンブルや借金で再野宿になる人も出てきた。このためアフターフォローがたいせつと、ボランティアで、自宅や病院訪問、電話での相談、生活保護申請や審査請求などの援助をおこなっている。
宿泊所に3年6月、その後1年を同法人の生活保護厚生施設で働いた後、退職。2007年4月から、ホームレス支援をしているボランティア団体にも加わり、居宅生活に移った人の支援のため、毎月1回、食事会や誕生会などを隔月で行なっている。
最近は、ネットカフェ難民など新たなホームレスも出現している。ホームレス問題の解決のためには就労と住宅が大きな比重を占める。労働者派遣法規制や本当に困っている人が生活保護受給できることも必要である。同時に、わたしのような取り組みもたいせつと考えている。生きていて良かった、生きているのはすばらしいと、多くの人が思えるように今後もささやかな行動を続けていきたい。無念の退職はしたが、それだからこそ、今、こうして多くの人たちに会える喜びをかみしめながら。