もうひと花咲かせたい

奥田 万里(60代)

 もう独身をとおそうかと思っていた矢先の縁談がとんとん拍子に進み、結婚に踏み切ったとき、私はすでに48歳になっていた。長い独身生活で積み上げてきたキャリアもあり、仕事だけは続けようと決意していたにも関わらず、わずか数年後にはリタイアしてしまった。中途半端な仕事しかできなかったという悔いが残った。
 退職の挨拶状に「もうひと花咲かせたい」と書いてはみたものの、終の住居と定めた山間僻地に働く場所などない。思案の挙句、仕事とは別のことに挑戦しようと考えた。それがエッセイを書くことだった。まずは自己投資、カルチャーセンターの通信講座を受講し始め、毎月添削指導を繰り返した。3年後静岡県の芸術祭に随筆を応募したところ、奨励賞を受賞する。その後も毎年のように賞の対象になり、書くことに弾みがついた。結局退職後から始めたエッセイが丸9年のあいだに長短併せて100編近くになり、その中から20数編を選んで近くエッセイ集を自費出版する予定である。
 エッセイを書くことは、私にとってどんな意味があったのだろうか。
 僻地ゆえ恵まれた自然環境。日々移ろい行く景色の変化、鳥たちや地元の人々との交流など題材は尽きない。自分なりに観察し、感じたことをどんなふうに表現できるのか、ゆっくりと感性を磨き考えるには田舎暮らしは最適だった。感じたこと考えたことを書いて表現することは、仕事に代えて自分が生きていることを証明することであった。
 また幸運にも2000年から翌年にかけてアメリカに9ヶ月間滞在する機会があった。
 定年間際の夫がフルブライトの奨学金を得て、研究員として留学するのに同行することになったからだ。初めての外国暮しは、私にとってこれまでと違った方向からものを考え感じる貴重な経験となった。異文化を楽しむには語学も時間も不足だったが、観察力を鋭敏に働かせ、自分なりの国際貢献に果敢に挑戦し、失敗もよくした。失敗もまた経験であった。これは夫とよくする海外の自由旅行でも同じである。失敗のたび私の本性があらわになり、少しずつたくましくなる。この体験を書き留めることで、それぞれの国のあり方と私という人間の関わりを客観的に見つめることができたように思う。
 書くことは、私にとって家族を記録することでもあった。夫のふとした会話の中で語られる義父母の面影を私なりに再構成して書きとめる。そうすることによって今は亡き夫の両親が私の心の中に生きて動いてくる。遅れて結婚した私と夫の、家族としての絆をより一層深める役割を果たしたと思う。また私自身の父の晩年の生き生きとした様子や父を実家で看取ったときのことは、書かずにはいられないような衝動に駆られた。延命治療をあくまでも拒否し続けた父の死は、尊厳死の在り方まで考えさせられた。その後残された母の介護も直近の課題である。人間生きていれば生老病死はつねに身近につきまとい、その度私自身の価値判断を迫られる。その判断が適切であったかどうか、書くことで検証できたように思う。
 そしていま、私は夫の祖父奥田駒蔵の発掘に夢中になっている。100年前の明治の末ヨーロッパに渡り西洋料理の修行を積んだ祖父は、東京日本橋に「メイゾン鴻之巣」というレストランバーを開業する。これが北原白秋、木下杢太郎、志賀直哉、吉井勇など当時の若手文士たちの好んで集まる場所となったという。駒蔵は大正14年43歳の若さで病死するが、死亡通知を受け取った永井荷風は日記「断腸亭日乗」に駒蔵の人となりを詳細に記し、その死を惜しんでいる。私は祖父が一体どんな人間であったか、その実像を探求するため、図書館に足を運び、さまざまな文献や書物を漁るようになった。私はそれを中間報告として、「祖父駒蔵と『メイゾン鴻之巣』」という文章にまとめたが、幸運にも静岡県芸術祭賞を受賞できたのだった。
 駒蔵調査をとおして私は、文学や歴史など過去の知識をもう一度洗い直し、学び直している。また祖父に所縁のある人々との新たな交流もできるなど、楽しみの多い、しかも奥深い探索の旅を続けている。ゆくゆく祖父駒蔵の評伝を書くことができれば、そのとき、私はもうひと花を咲かせることになるだろう。