『セカンドチャンス』は初めの一歩から

匿名(40代)

 現在、私は県立高等学校英語非常勤講師および地方自治体英語指導補助員として英語 を教える仕事に就いています。英語教育に関する学会に所属し研究・実践の成果を発表もしています。 財団法人エイ・エフ・エス(AFS)日本協会の支部員として、海外からの留学生とホストファミリーとのコーディネーターとして活動しています。身近なところでは子ども劇場会員として、親子で劇の鑑賞および子育ての自主活動をしたりしています。また、数年前には、国立大学大学院の大学院生として、主に小学校英語のカリキュラムを研究し、教育学修士および教員専修免許を取得しました。また、大学院在学中に実用英語技能検定1級に合格し、その後、英語検定の面接委員の委託も受けています。
 このように振り返ってみると、二足のわらじどころか五足も六足もわらじを履いて日々過ごしているなあと我ながらあきれてしまいます。友人たちは、「子どもが3人もいて、旦那さんの両親と同居もしていて、よくそんなにいろいろとできるわねえ、、、。でも、なぜか自然体なのよね。」と評してくれます。肩肘を張らない自然体というのが、私の生き方なのだと改めて思います。
 大きな障害を乗り越えて、何が何でも勝利を手にするという生き方に憧れることもありましたが、今思うと私はそういうタイプではありませんでした。 人生岐路に立ち、それぞれの場面で天秤にかけるものは異なりましたが、その状況でできる範囲で、今自分に何が必要かを問い、切るべきところは切り、セーブすることはセーブして自分なりにバランスをとりながら二歩進んで一歩下がることを繰り返し今の自分があります。
 小学校時代の夢は、先生になることだったようです。結局今は、子どもたちに英語を教 えているので辻褄があっていますが、これまで紆余曲折がありました。
 まず、初めから英語が好きだったわけではありません。むしろ国語、世界史のほうが好き で、英語は嫌いではないという程度のものでした。英語なら後でつぶしがきくという不純 な動機を持ちながら英米の歴史社会を学ぶために大学に入り、受験勉強が終われば、英語 の勉強は終わりだろうと思っていました。それがずっと英語とつきあうことになるとは面白いものです。当時、皆と同じように取り敢えず教職過程を履修し教育実習に行きました。当時 、教育実習で一度に50人の生徒を前にして、そんなに勉強しているわけでもない英語を教え、顔は真っ赤になるは、心臓はバクバク飛び出しそうになるはで、とても人前で話す教師になる自信はないと早々に諦めました。
 そして、企業で働く方が向いていると思い、結婚後も働き続けるつもりで就職先を探しました。当時としては、珍しく既婚子持ち女性が働き続け、また女性係長もいる会社に入社し、二年後に結婚もしました。ところが、現実は厳しく、既婚で子持ちの上司女性は、男性上司の無理解と子育てに日々悪戦苦闘していました。一方同期入社の男性は、男性であるというだけで、私より明らかに劣ると思われる人でも、三年経つと自動的に昇給しました。仕事もわかりかけてきた頃でしたが、不平等や圧力を目の当たりにしていたため、子育てしながら勤める価値が見いだせなくなりました。その頃、妊娠がわかり、 子育ては自分にしかできないけれど、社員の代わりはいくらでもいると考え、さっさと退社してしまいました。ちょうどその年、昭和61年の4月には、男女雇用機会均等法が施行されました。
 その後、自分から選んで専業主婦となって子育てをしていたのに、今度は社会から隔離された疎外感を感じ、また同窓で英語教員をしている夫からも置いていかれるという焦りを感じていました。とはいえ、2人の幼児という手枷足枷があり、思うように動けないので仕方なく、児童英語の通信教育を初め、まずは自分の子どもにでも教えようかと思いました。英語に関する通信教育を次々と続けていくうちに、英語の勉強が楽しくなり、NHKラジオ講座の杉田先生を勝手に師と仰ぎ、時々怠けながらもずっと聴き続けるようになりました。途中、仏語をかじったりしながらも、子どもたちに負けてはならじと、英語検定にも再挑戦しやっとスタート地点に立つようになりました。
 そしてとうとう転機がやってきました。「高校で英語非常勤講師を探しているが、やってみたらどう」と、躊躇する私に、「あなたよりできない人がやっているんだから大丈夫」と背中を押してくれた夫の言葉にのせられて、非常勤講師に初めの一歩を踏み出しま した。後に、講師仲間の紹介で留学生のホストファミリーとなり、その縁で、今はAFS の支部員として活動もしています。
 その一方で、在宅で副業になると思い翻訳の勉強継続し、仕事を依頼されるようになりました。そのまま翻訳も続けていたはずですが、人生そうはうまくいきませんでした。驚いたことに9年ぶりに3人目を妊娠し、出産子育てがまた始まりました。不規則な生活を強いられる翻訳の仕事は、家族との生活を第一に考える私の生き方とは相容れないことがわかり、この時すっぱりやめてしまいました。 
 最近では、3人目の子育てのおかげで、小学校英語に関わるようになり、 悩んだ末、小学校英語の権威の先生を追いかけて、えいっと大学院に入ってしまいました。また、嫁ぎ先の見知らぬ土地で思い切って入った子ども劇場とも15年くらいのつきあいで、今では年齢が一回り以上も違う若いお母さんたちと知り合うこともでき、活動を通じて子育 てに関する相談を受けたりもします。
 最後に、セカンドチャンスをつかむ方法について書き始めたものの、今でも、非常勤講師という働き方でいいのだろうか迷うこともあり、参考になるか疑問が残ります。しかし、フルタイム勤務であったらなら、できなかったかもしれない様々な経験を通して、世間と関わってきたことが、私のセカンドチャンスだと考えました。セカンドチャンスの内容は人それぞれでしょうが、それをつかむには、何事もまず一歩踏み出してみることから始まると思います。次の新たなチャンスを見つけるために、私はまた世界を広げていこうと思っています。