セカンド・チャンス

匿名(50代)

 ピアノの先生か幼稚園の先生になりたい!という夢を両方叶える形で母校の付属幼稚園で教職についた。現在のようにモンスターペアレンツがいるわけでもなく、社会人第一歩は毎日大好きな子どもたちに囲まれて、楽しかった。
 気がついたら13年、仕事を覚え、家庭を持ち、2人の子どもを持つ母にもなり、保育園、職場、自宅の三角形を走り続ける共働きのおかあさん先生だった。その頃は何の余裕もなく、毎日食べさせて、寝かせて、働いてこれだけをくる日もくる日もやっていたように思うが絵本を読み聞かせて一緒に寝るのが至福の時だったし、楽しかったことしか覚えていない。ただ子どもが病気になった時は、日曜に開業している医者をさがし「いつから保育園に行けますか?」とまず聞いた。「治りますか?大丈夫ですか?」となぜ聞いてやれなかったのだろう。育児休暇はあったがそれを権利として主張できる時代ではなく、クラスを担任していれば替わりはなく、もちろん休めない。夫と両親の協力を得て続けたが、子どもにも感謝している。
 仕事は大好きでずっと続けたかったが、長男がけんかして帰ってくるたびに菓子折りを持ってあやまりに行ったり、学校行事にもまったく出席できず親しい友達もなく、地域のことも何も知らなかった。このままでは自分の子どもがこわれる!もともと子どもは3人欲しいと思っていたので第3子の出産を機に退職した。35歳で家庭に入り、末娘を産んだが3番目なので余裕も時間もたっぷりありただただかわいかった。上の2人の学校から帰る「ただいま!」の声でなにがあったかわかるようにもなった。この期間は宝物のような経験だった。ただ社会復帰は常に頭のすみにあり、次は子どもに何かあった時に対応できる環境でと決めていた。幸運なことに地域の児童館で非常勤勤務。6年間今度はいろいろな子どもたちと交わりまた私立幼稚園とは違った経験ができたし、自分の子どもたちの病気や学校の呼び出しにもすぐ自転車で迎えに行けた。保育園や学校、学童クラブの役員も引き受け友達もできた。また前職の恩師の薦めで短大の保育科で週1回非常勤講師を務め幼稚園や保育園の先生になる学生ともつながりがもてたし、スキルアップとして独学で保育士の資格も取った。次は3年間学童クラブで障害児担当のパート。今まで経験した健常児との付き合いと違い、ハンディキャップのある子どもたちのまっすぐなくもりのない心。この子たちから学ぶことは多かった。
 今までの仕事の総決算として最後の仕事になるかもしれないとの思いでエントリーしたのが地域の子育てを支援するファミリーサポートセンターのアドバイザーの仕事だった。
 トップギアからどんどんギアチェンジしてきたが決してエンジンは切らない。切らずにすんだ幸運。チャンスがいつもやってきた。天の時、地の利、人の和、本当に運が良かった。8年目にはいった現在、保育園や学童クラブの時間延長、病後時保育、小学校の自由選択制、受験に関わる早期教育、ひきこもり、さまざまな障害、精神を病んだお母さん、虐待、ネグレクト、仕事の中で出会う問題はどんどん複雑怪奇になってきた気がする。
 子育て支援の取り組みは進み、育児休暇も充実し、ずっと余裕が出てきたはずなのに、子どもが命の危険にさらされるような、戦争も疫病も今のところないのに・・・逆行している。
 子育てをしているおかあさんを応援したい、そして何より子どもたちを応援したい。生きていくと楽しいことがたくさんあるよと・・・・。
 このファミリーサポートセンターはサポートしてくれる区民の協力員というボランティアでなりたっている。アドバイザーの仕事を通して協力員からもいろいろ学び、今は仕事のかたわら児童館で音楽リズムやリトミック、パネルシアター、保健センターで赤ちゃんとお母さんに絵本の紹介、障害者雇用支援事業団で障害のある人とお皿洗いやカレー作り、などボランティアにも首をつっこんでいる。
 仕事の場を地域に限ってから16年。興味や活動は反対にどんどん広がってきたし、やってきたことはどこか底辺でみんなつながっているように思う。
 子ども2人は成人し、末娘は地元の都立高校生。保育士志望なので楽しみに、いや時代を考えると不安もあるが秘かに応援している。