転勤族の夫とともに

村瀬 かおり(40代)

 「やった。北海道だ。」
 それは新婚2年目の5月のことだ。都内の新聞社に勤務する夫は初めての転勤の内示にはしゃいでいた。行き先は北国札幌、憧れのリゾート地だ。
 当時、ターミナルケアの専門看護師を目指してがんセンターに勤務していた私は、正直喜べなかった。
 転勤に伴う転居はこの20年余の間に6回を数え、私はその度に仕事も友人も環境も変わることとなった。さらに2度の出産と実父のがん闘病による介護も経験した。
 「地域の中核病院でがん看護のスペシャリストに」という夢は、年齢制限の壁とストレスで発症した気管支喘息、昨春のがん手術であきらめざるをえなかった。しかし現在、知的障害者生活介護支援事務所の医務室にパート看護師として復職し、家事、育児、一人暮らしの実母のサポートを両立しながら充実した毎日を過ごしている。そのような体験が皆様のご参考になれば良いかと思う。
 幸い有資格者ということで、札幌で私の再就職先はすぐに決まり、秋には再びがんセンターの希望病棟での勤務となった。プライベートでは学生時代からの趣味を生かして市民オーケストラに所属し、4年半以上、札幌での生活を満喫した。学会発表や研修会を重ね、看護師としても自信を深めていた28歳の時、第一子を妊娠した。
 夜勤のない外来勤務に異動し、産前産後休暇と24時間院内保育所の手続きを済ませ、出産後8週間で復帰できる万全の体制を整えた妊娠中期のある日、夫の転勤辞令が下りた。神奈川だった。
 大きなお腹を抱えていてはさすがに就職活動はできない。出産しても看護師としてキャリアを積みたい。でも、新しい土地で初めての出産を間近に控え、この時ばかりは着々と積み上げてきたものが一気に崩れたような喪失感と不安でいっぱいだった。
 神奈川では無事に男の子を出産したものの、産後間もなく私は気管支喘息を発症し、再就職どころか第二子妊娠さえドクターストップとなった。更に、千葉に住む実父が病床につき、育児と介護の日々となった。
 喘息というのは夜に発作が起きると咳で眠れなくなる。日中はまだ良いが、夜中に布団に横になると咳が止まらず、赤ん坊を抱いたまま壁にもたれて夜を明かすことも度々だった。慣れない密室育児に疲れてイライラして、「転勤のために女性ばかりが何もかも中途半端になる。」と夫に八つ当たりしたのはこの時期だ。
 くしくも実父が息を引き取った当日、夫は九州への転勤辞令を受けて帰宅したところだった。「父のことがあるので今回は単身赴任ね。」と私は自宅で夫と相談していたまさにその時、父の急変を知らせる電話が鳴った。あまりのタイミングに「単身赴任は駄目だ。」と父に言われているような気がした。
 会社が転勤を3カ月保留にしてくれたお陰で、落ち着いて四十九日を済ませることもできた。そして家族3人、福岡での新生活は始まった。
 実は私は札幌でオーケストラ活動の傍ら、津軽三味線を習っていた。限られた期間しか住めないのだから、その土地でしか習得できないものに挑戦したかった。九州といえば太鼓だ、と3歳の息子と民謡太鼓で有名な先生の門を叩いた。福岡滞在中に舞台も多く経験し、とうとう名取り試験にも合格した。
 また、社会福祉専門学校で講師を務めたり、NPO法人でホスピス研修に参加し、カウンセリングの勉強をしたり、学会準備にも積極的に関わった。いつかはまた転勤かと思うと、また失うものを増やしたくはなかったので、期限を作り小刻みに目標を立てて行動した。
 良い主治医にも恵まれ、喘息のコントロールがとれるようになった。一人目から8年の間隔を置いて福岡で娘を出産した。その半年後、東京本社に戻ってきた。
 最初に勤務していたがんセンターの同期は主任として活躍していた。私を指導してくれた先輩は、センターの看護師長だ。「40歳までに復帰すれば正職員として採用可能だ。パートも募集しているからまた一緒に働こう。」と誘って頂いたが、踏み出せないでいるうちに、私自身ががんを発病した。
 父を看取り、自分のがんの手術を体験して、患者の気持ちや家族の立場もより深く理解できるようになった。働き盛りの夫、反抗期真っ盛りの中学生の息子、天真爛漫の幼稚園児の娘に囲まれた、ごく普通の家庭の主婦だ。
 20年前に抱いていたものとは専門分野こそ違ってはいるものの、今の職場は色々な場面で今までの経験を生かしたり、意外な共通点を見出すことができる。そこに私を紹介した方は、趣味の継続のために参加したお囃子グループのメンバーだ。何が自分を導くか、夫の転勤もまた転機だったのだと感謝している。