Up To Me ~自分次第で~

高橋ちぐさ(40代)

 「なりたい」「なりたい」「なりたい」と真に強く思い続けていれば、それは叶えられるということを42歳にして私は実感した。今から1年ほど前、税理士試験の合格通知を受け取った時のことである。
 振り返ってみれば、35歳で税理士試験を始める前年、独学で日商簿記の検定試験を受けようと思い立つまでは、簿記にも経理にも全く無縁の主婦だった。短大を卒業し、大手電機メーカーでOLをやり、そこそこ仕事に慣れた頃、あっさりと花業界に転職するも、結婚し子供が生まれて家に入るまで、仕事と自分について真剣に考えたことはなかった。人は、当たり前のように自分が持っているものにあまり価値を見出さないものだから。しかし、社会から離れて自分が家庭以外の何にも属していない状況になると、その心もとなさに愕然とした。必要以上にパートナーに依存したり、愛すべき子供を疎ましく思う気持ちがわきおこったりと不安定な数年を経て、私は心から仕事をしたいのだと強く思うようになった。
 一般に、社会に復帰するとき最初に飛び越えなければならないハードルはやはり子供を預けることだと思う。保育園探しの煩雑さや、実際に子供を預ける段になって、子供に淋しい思いをさせている自分を責める気持ちや周囲からの心ない言葉などが、「もう一度社会へ」という気持ちを萎えさせてしまうこともある。でも今思えばそのハードルは聳え立つほどの高さではなく、何度かトライすることによってあっさりと飛び越えられるものであった。最初の一歩を踏み出す時が一番勇気を必要とするものだが、先の見通しが立たなくてもとりあえず踏み出してしまえば、あとは進むだけだ。その都度現れる障害は、飛び越えるなりよじ登るなりして、なんとか乗り越えられるものだと思う。最初は泣いていた子供もすぐに環境に順応するものだし、自分とパートナーさえ気持ちがぶれなければ、周囲のことはあまり気にならなくなった。
 多くの女性が再就職を考える際そうするように、私も派遣会社に登録して派遣社員として働き始めた。しかし、仕事と家庭の両立生活に体が慣れてくると、派遣社員としての不安定な立場、与えられる単純作業、それさえも遂行するに当たって自分の判断ではなく若い正社員の指示を仰がなければならない現実に直面することとなり、フラストレーションを抱える毎日となった。幾ばくかの収入と引き換えに、幼い子を他人に預けてまで得た貴重な時間を湯水のように費やす仕事だろうか。悶々と自問する生活の中で、私は次第に心の中で強く念じるようになった。「絶対にもう一度、名刺がもらえる人になる!」と。
 今思えば表現が稚拙であるが、しかしあの頃の私の思いを強く表している。名刺は、自分に対して会社が仕事上の権限を与えてくれる証である。大きなプロジェクトを任されるとかそんな大それた権限というより、就業時間の7時間なりを自らの考えで行動することができる、極端に言えば机の上の書類を右から左へ移動できる、そんな最低限の権限を象徴していたのが当時の私にとっては名刺だったのだ。
 しかし今振り返れば、あの派遣社員時代の強い不満という原動力がなければ、それから数年後に始めた税理士試験を最後までやり通すことはできなかったと確信できる。税理士試験はかなりの難関試験である。しかし会計も経済の仕組みも何も理解していなかった私でも合格することができた。もちろんカルチャーセンターに通うような気持ちで軽く始めた人たちはどんどん脱落していったが、自分に与えられた時間(主婦であれば家事、育児、最低限の睡眠時間を差し引いて残った時間)の全てを勉強に費やすという超ストイックな生活を何年か続けることができる強い精神力さえあれば、誰でも必ず合格できる試験だと思う。確かに24時間は人間に平等に与えられた時間ではあるが、そのうち自分だけのために使える時間の長さは、個人個人置かれている状況で大きく違う。学生や親の家で勉強だけに専念できる人は、たくさんの時間を勉強に費やすことができるが、必ずしもそういう人たちがすんなり合格しているわけではない。3年間という短期間で合格を果たした人は、子供がいる既婚者でありながらフルタイムで働きつつ税理士を目指すスーパーな女性だった。逆に、私の勉強仲間の中に、既婚者ではあったが子供はなく、仕事上夫の帰りが遅いので勉強時間を多く取れる女性がいた。私はかねがね彼女の環境を羨ましく感じていたが、彼女は、「働きながら勉強している人に比べて自分は時間があるから、そんなに長い時間勉強しなくても短時間集中して、あとは生活も楽しみたい」と言っていた。確かに理論上は、子持ちでフルタイムで働く先述の女性の勉強時間と同じだけの時間を勉強に充てるだけで合格レベルに達することができるのかもしれないが、その年私と彼女は同じ所得税法を受験し、日ごろの成績は明らかに彼女の方が勝っていたにもかかわらず、私が合格し彼女は不合格であった。その時、税理士試験においては知識だけでなく精神的なものが強く影響するのだということを実感した。
 その後苦労しつつも税理士受験に合格し、40代にもかかわらず、正職員として会計事務所に就職することができた。入所初日に、あれほど欲しかった名刺が机に置かれていたときは、感慨もひとしおであった…と物語ならここでハッピーエンドとなるところだが、現在の私は、また新たな目標に向けての努力が始まっている。税理士の中でもとくに税務訴訟に対応できる補佐人税理士になるべく今年4月から法学部の修士課程に入学した。まだ始めたばかりの実務と全く新しい分野である法律学の勉強を両立させることは、楽なことではない。でも自分の人生を変えるのは結局のところ自分次第なのだということを私はすでに知っているので、この新たな目標もクリア出来ると信じている。