It’s never too late.

M・Y(40代)

 私は、現在、地方の精神病院で臨床心理士として働いています。年齢は49歳で、もうすぐ7年目です。40歳で大学の聴講生となり、その後大学院で臨床心理学を専攻しました。家事をしながら、修士論文を書き、臨床心理士の試験に合格し、老体に鞭打ちながら、やっと巡り合えた仕事に勤しんでいる毎日です。齢を重ねてからのスタートで、思うように頭も体も動きませんが、私のこれまでの経験は、仕事をする上では役に立っていることも多いと言って過言ではありません。
 ここだけを取り上げると、「主婦からの華麗なる変身」とか、羨望の眼差しで見られることも多いのですが、これまでは転職を繰り返すばかりで、この年齢になって初めて、自分で胸を張れる仕事に出会ったような気がしています。刷り上がった名刺を手にした日の感動は、今も忘れられません。
 私は、東京の私立大学の英米文学科を卒業しましたが、当時は「自宅外通勤不可」というのが大手の商社や金融機関の常職で、4年生大学卒の女性にとっては、まだまだ受難の時代でした。学生時代はサークルやアルバイトに明け暮れる毎日で、それなりの充実感はありましたが、好きな演劇で食べていくのは経済的に難しく、それだけの覚悟もなく、実家のある田舎で中学の教師になりました。元来、学校が嫌いな私にとって、教師生活は窮屈で、辞めることばかり考えていました。母親は、地元に嫁いで欲しいという思いが強く、何度かお見合いをして、現在の夫と結婚しました。その後1年近くは、仕事をしていましたが、産休に入るとすぐに、私は「クモ膜下出血・動脈瘤破裂」という病に侵され、その上、髄膜炎も併発し、生死の境を彷徨うことになりました。妊娠9か月、その年も今年のように寒い2月の終わりでした。その時の息子がもうすぐ24歳の誕生日を迎えます。ただ、「悪運が強い」と私の開頭手術をした脳外科医が評したように、私の手術は成功し、一応目に見える障害も残らず、帝王切開にて息子も無事「摘出」されました。「摘出」という言葉を用いたのは、全身麻酔での出産、出産後母乳を一度も吸わせたことがなく、生後3か月まで施設に預けたため、母親としての負い目からです。
 その上、1歳を過ぎた頃から、息子の様子が育児書や近所の子どもさんと明らかに違うことに気づきました。いわゆる「多動」で、落ち着いて行動できず、食事や一つの遊びに集中できないのです。言語の発達も極めて遅れていました。その後「発達障害」だと診断されました。自分の仕事も健康も・・・その上、命がけで産んだ子どもまで・・・と思うと、世の中の不幸がすべて自分に降りかかってきたような絶望感に苛まれました。ただ、「『子育て』では後悔したくない」という思いも強く、今までの私の人生の中で一番頑張ったのが、『子育て』であると自負しています。現在は、息子はそれなりに成長し、大学院にて勉学に励んでいます。
 やはり、この仕事を選んだのは息子の『子育て』が原点だったと思います。親の会の活動を通じて、発達障害の子どもたちや家族の援助をしたいと思ったのが、最初の動機でした。ある意味、自分の病気や息子の障害がこの仕事に導いてくれたともいえるでしょう。これまでの人生を振り返ってみると、小学生の頃から憧れていた仕事は幾つかありました。ただ、一貫して好きだったのは、文章を書くことと演劇でした。今のところ作家でも女優でもありませんが、心理劇や臨床活動の中で、私の好きなことは生かされています。やはり、選ぶべくして選んだのだろうと不思議な気持ちになります。
 40歳を過ぎて、やっと自分のやりたい仕事と巡り会えた私が、偉そうなことは言えませんが、出産後の3年間を除けば、何らかの形でずっと働いてきました。充足感のない仕事やほんの数日だけのアルバイトもありました。主婦や母親という縛りの中で、いつも悪戦苦闘していただけだったようにも思います。ただ、毎日一生懸命生きていれば、必ず、自分が人生を懸けても構わないという仕事には出会えると確信しています。
 大学時代、アメリカで「It’s never too late.」という言葉の真意を痛感しました。臆病風に吹かれそうになった時、そっと呪文のように唱えてみると、少しだけ前を向けるのです。