19年後のドリームズ・カム・トゥルー
小川 益子(40代)
ニューヨークの申し込み期限を目の前にして今何をやらなければいけないのか悩んでいます。この原稿用紙から目を離すと隣の部屋に昨日の半乾きで畳めなかった洗濯の山、隣の離れの家にはめまいで嘔吐し病院で点滴を打って寝ている姑。日常の当たり前に生活することで精一杯な自分に、ニューヨークと犬山を結ぶ一週間のニューヨークでのホームステイのチャンスが目の前にあります。でもなんともいえない不安があって昨夜は一睡もできなかった。この「セカンドチャンス」という応募も〆切りが明日というのに、ニューヨークの夢は夢で終わってしまうのだろうか…。でも今やらなければならないことは、まずこの体験を完成させ、夫や3人の子供達や姑や私を支えてくれている人達の為にも夢を諦めないでニューヨークの申し込みをしたいと思います。ニューヨークに行って自分がどうなるか。
今年の二月に結婚19年目を無事に迎える予定でいます。19年前の事を思い出すと今の私達がこんなに色々な国の人達とお友達になっているなんて夢にも思わなかったでしょう。結婚してすぐ長女を妊娠し暇な妊婦が黄色の「七ヶ国語で話そう」というポスターの参加無料の言葉につられてその会の講演会に行ったのが小川家の鎖国から開国になるきっかけとなりました。その講演会の内容はあまり覚えていなかったのですが、そのなかで体験を話された白髪のおばあさんのアメリカにホームステイに行ってこられた話を聞いて「私もいつかホームステイに行きたいな。」と思いました。それ以上の事は考えず、あと私の住んでいる犬山市は一年前に国際観光都市宣言をしていたのでおなかの赤ちゃんはいろいろな国の人達が集まる町に生まれその人達と共に生活していくのだからということで主人と私と入会しました。娘が生まれて娘も参加するようになり息子が生まれ次女も生まれ今までの19年間色々な国の人達との交流を続けています。現在19カ国語の活動に広がっていますが当時は7カ国語からのスタートで苦手だった英語が一番わかる言葉になっていました。その活動の中にホームステイの受け入れがたくさんありました。私も外国の方を家で泊めることなど今まで一度もなかったのですが、二人目の子供が生まれてから初めて受け入れをしました。その方は中国の方で会話は殆ど日本語でしたが短い時間で様々なことを話すことができ、とっても楽しい時間を持つことができました。それを機に色々な国の方を自分の家族として受け入れしました。三人目の子供が生まれた時にドイツの女の方を受け入れました。その方から環境問題の話を沢山聞きました。その話を聞いて、良い環境を作るには良い人作りから始めなくてはいけないと私は考えました。当時の犬山の市長の石田芳弘さんも「町づくりは人づくり」教育がとっても大切なことだとおっしゃってみえました。その時、自分が犬山市の町づくり人づくりにお役に立てるように観光交流大使というボランテイアをその時から始めさせていただきました。犬山の町を世界に知ってもらい犬山の子供達をグローバルな子供達に育て、その子供達が犬山をもっとグローバルな町にしてくれるようにきっとなると、でもその時また小さな子供を抱えて観光交流大使としてお役にたてるかどうかとても心配でした。その上一番下の子供が保育園に入ると同時に主人の父の経営する会社の事務のパートに入ることになり、ますます、子育てと仕事に追われ、クタクタの状態の中でも外国の人を休日にホームステイの受け入れをしてその人の国のことや言葉を教えてもらったり、犬山の町を案内することで、日頃の疲れから解放されました。2年前に舅が他界しました。約3年間の入退院の繰り返しと姑の入院もたび重なり様々な問題がありましたが、毎週顔を合わせるファミリーという場所で色々な国の言葉を話したりゲームをしたり歌ったりしてこれたおかげで一番つらかった時間を乗り越えられました。人のお世話をさせてもらうことで逆に人から教わったり子供達がアメリカ、ロシア、台湾、韓国にホームステイをさせてもらったことで、人に優しくなって帰ってきました。今年に中一になる末娘が夏にアメリカに1ヶ月ホームステイに出かけます。去年彼女は初めて一人でロシアにホームステイに行ってきました。向こうで体調を崩したようですが、その事をとってもロシアの家族に大切にしてもらいました。帰国してますます家族と一緒に過ごす時間が大切なんだということを学ばせてもらったようです。
いつも子供達に「夢は何?」と聞いているのにお母さんの夢はね「 」と子供達に言っていなかった自分がいました。今こそ私の夢を実現させるために色々なハードルを乗り越えて、その姿を子供達にも見せて、夢を叶えるために毎日前向きに生きることの大切さを伝えていきたいと思います。世界中の子供達にも伝えていきたいと思います。