私の再出発

匿名(50代)

 1995年暮、私は29歳の時から15年間開業してきた皮膚科医院を閉院した。駅前のビル診の医者として30代と40代の半分を捧げたことになる。けれども決して患者が来なくて経営が成り立たずやめた訳ではなかった。 むしろ昭和56年の開業当時は市内で初めての皮膚科専門医であった事や、駅のホームから窓に書いた医院の名前が見えるほどの立地条件の良さで押し寄せるように患者が来院し、忙しさの余り従業員が次々と辞めて補充の為に面接を繰り返さねばならない程だった。
 当時ステロイドの外用剤が次々と出た頃で、それ1 本で大抵の患者は痒みから解放されるようになった感があった。ところが開業して数年も経つと、ステロイドの外用ではコントロールできず何年通院しても治らない例が出てきて、そういう患者に対しては全くお手上げの状態になってしまう事に気付き始めた。治らないばかりか、(当時の私にとっては)理由も分からず憎悪してもっと強いステロイドを必要とし、終には治療手段が無くなってしまうこともあった。そういう患者は当然不満を募らせていくのだが、こちらも余りの忙しさに次々診て行かないと時間内に終わらないのできちんと話も出来ず、患者が不満や怒りをぶつけてきてトラブルになるような事もあった。又、時間内に終わらないと従業員にも不満が出る。そういう状況で仕事を続けていくうちに次第にアルコールの量も増えて、胃腸の調子は常に悪く、盗汗や動悸に悩まされ続けた。
 その頃1通のダイレクトメールを捨てようとして手が止まった。日本に住む台湾の中医師が行っている漢方セミナーの案内だった。それまでその存在を知ってはいたものの、大学では学んだ事の無い漢方薬が、西洋医学ではどうしようもない患者に効果があるかも知れない。藁にもすがる思いでセミナーに参加し早速何種類かのエキス剤を準備して手探りで漢方薬を使い始めた。同時のその先生の監修している高額のテープや参考書を片端から購入して勉強を始めた。
 これをきっかけに一人一人の患者とまともに話しも出来ないビル診にますます嫌気がさしていった。漢方薬を出すには問診にある程度時間をかける必要がある。そこで人数を制限するようになったが、これが共同経営者である父には気に入らなかった。借金もあったし、毎月高額のテナント料も払わなければならないからだ。私は次第にこの状況が耐えがたく感じられるようになり、早くこの医院をやめたいと思う様になった。
 43歳になってようやく借金を全額返済しやめることが出来た。はやっている診療所を15年間もやっていたのに、その町に愛着を感じることが出来なくなっていた。道を歩いたりスーパーで買い物をしている時に患者に会うのが死ぬほど苦痛だった。
 翌年私達は夫の生まれ故郷である逗子に転居した。老後は魚の美味い土地で自宅開業を、と願っての事だった。煎じ薬も手掛ける様になっていたので、新しい土地でも漢方薬とカウンセリングで患者を呼べるだろうと自分なりに踏んでのことだった。転居後暫く心理学の勉強をする為に東京へ通う日が続いた。
 数か月後、皮膚科の看板を駅から徒歩20分はかかる高台の住宅地の一軒家に掲げたが、患者は殆ど来なかった。たまに来院しても他の病院を転々としても治らない様な重症ばかりで、当時の漢方の実力ではとても歯が立たなかった。
 一日中電話も鳴らない、ダイレクトメールも1通も来ない、新築の自宅のスイッチの場所も分からない、そんなことがとても応えた。40代半ばにもなって普通なら仕事に熟練し収入も安定するはずなのに、自分は丸裸になって今までやってきた事は何も役に立たず知らない土地で手探りで新しい事を始めようとしている。駅前皮膚科をやめたことに後悔は無かったが、食べていけるかどうか不安でいっぱいだった。
 やがて駅からこんなに離れた場所でカウンセリングを生業とするのは無理だ、という結論に達した。煎じ薬を中心とした漢方一本に絞ってやっていくしかない。上海の中医薬学大学が日本で通信教育生を募集しているのを知り入学、終了後試験に合格すれば1年間の中国内臨床実習も可能だ、という触れ込みに惹かれて中国語も学び始めた。学生時代の様に大量のレポートを提出してはスクリーニングとテストを繰返す。その間に観光をかねた1週間ほどの上海研修にも2度参加した。また、学んだばかりの事を臨床に応用していくうちに煎じ薬を求めて来院するアトピーの患者が増えていった。夫と二人でやっていく為に250万もする漢方薬の分包機を購入するまでになった。
 しかし、それでもアトピーの患者だけではやはりこの立地では難しいと感じていた。たまたま漢方薬を求めて来院した婦人科の患者にエキス剤が効くのを目の当たりにするうち、中医婦人科なら効果も確実でニーズもあり、ある程度収入を安定させる事が出来るだろうと考えたのである。それに夫は元々皮膚科医の私が婦人科を標榜するには中国に留学してきちんと婦人科を学んだ方が良い、という考えを譲らなかった。
 49歳の8月、再開業後ようやく順調に行きだした診療所を閉めて上海へ留学した。50歳の10月、修了証を手にして日本に戻ると翌月診療所を再開し、漢方と鍼灸による婦人科、皮膚科の治療を開始した。少しずつ婦人科の患者も増えて定着して来た。
 その後、ひどい鬱状態に陥り4年余り苦しんだが、今はそれもようやく快方に向かいつつある。