女性のセカンド・チャンス
福田 裕子(40代)
第一子の出産を2ケ月後に控えた昭和63年7月に退職して以来、平成12年4月からパート職員とはいえ、なんと11年ぶりに仕事に就いた。住所地と同じ町内にある教育センターの「指導員」になったのだ。月曜から金曜の週5日、一日5時間の勤務で、時給750円。この年、二人の我が子は小学校の6年、3年生になっていた。
11年間、専業主婦をしていた。
この間、社会と繋がっている仕事をしていないこと、収入が無いことを、深く感じながら、いつか、どこかで、就業しようと思っていた。いつか、と言うのは子育てにたいしての考えで、どこか、と言うのは自宅からの通勤距離、通勤時間を考えてのことである。
子育てが終わった訳ではないが、一段落したとするのはいつか。末の子の幼稚園への送迎、特に午後2時の降園が可能な職となる。小学校1,2年生の頃は4時間授業の日が多い。徒歩で下校するようにはなるが、午後2時前後の帰宅である。3年生からは、週5日、5時間授業となり帰宅は午後3時過ぎだ。
勤務時間、通勤距離、通勤時間は仕事を長く続けていく上で、重要である。掃除機を畳んだ5分後、10分後には職場に着いている、「お疲れさまです」と挨拶した後、数分後には自宅にいる、という状況はありがたかった。子供達が「ただいま」と帰ってきた時、母の私が自宅で出迎える事を大事にしたかった。
教育センターの指導員とは、義務教育中の不登校の児童、生徒の指導である。この年、文部科学省は全国の不登校児は13万と発表した。我が子が義務教育児であっても、家庭にいる母にはそんな実感は、まったくない。
出産までは、小学校の臨時教員をしていた。昭和55年ごろまでの教員の大量採用とその後の少子化の影響で、教員の採用は20~25倍にもなっていて、29歳で退職するまで、ずっと臨時教員であった。教育に携わっていたにもかかわらず、指導員になったこの頃、「反社会性」、「非社会性」の区別もつかなかった。
教育センターには指導員の他に、退職した校長と教育相談主任を専門とし、やはり退職した教員経験者が、相談員として2人常駐していた。「指導員」として働いた4年間、このお二人に私も指導して頂いた。
11年ぶりに定時に出勤する。家族を送り出した後、-通りの家事をすませ、身支度を整え、化粧をし、散らかりや汚れに目をつぶり、電気系や火の元をチェックし、玄関で靴を履く。こんな事が当たり前の朝になるのに、3ヶ月はかかったと思う。40歳であった。
話は前に戻るが、臨時教員を退職して1年半後、夫の海外勤務に3年間同行した。出産して6ヶ月もすると臨時教員の口が来る事もあったが、約1年後には日本を発つことになると思うと、育児に専念することにした。もしも、この海外勤務が無ければ、この時どんな選択をしたのだろうか。
1歳半の幼児連れで家族3人、アジアの一都市に住む。勤務2年目には当地で第2子を出産し、家族が4人になった。帰国の時期が見えてきた頃、日本語講師を目指そうと思い至る。日本語検定3級を持つ近所の女性に日本語学習の手伝いをし、代わりに現地の会話を教えてもらうと言うボランティアに、手応えを感じていた。当時、日本はバブルの末期で多くの出稼ぎ労働者、特に西アジアからの労働者が渡ってきた。中曽根総理の「留学生受け入れ構想」に押されるように、日本語教育能力検定試験が国家資格になる。
帰国後、5歳と2歳の子供達が寝静まるのを待って、また、少し成長した後小学校や幼稚園に行っている時間を利用して、独学でこの資格取得を目指した。同時進行で、近くの公民館の一部屋を借りて、週に2時間、外国人住民向けの日本語指導、生活相談をするボランティア団体をつくる。埼玉県所沢市にある中国残留孤児帰国センターのボランティアにも出向いたことがある。
平成12年、埼玉県が県費の日本語の非常勤講師を募集した。これは外国籍の児童、生徒に、在籍する学校に出向いて日本語の指導をするもので、「取り出し授業」担当である。この仕事の面接時に不登校児の「指導員」はどうか、という話になったのであった。職種も条件もまったく違うものである。10年以上前の経験が、今取り組んでいるものより優位なのが意外ではあった。
やりたい事、やってみたい事が必ずしも就業に結びつかない事を実感している。小学校教員や日本語講師も、資格や修了証を手にしていても、その時々の社会のニーズや経済の大きなうねりに、その就職口は左右される。子供を持った以上子育ても楽しみたい。我が子のそれぞれが持つ肌の臭いを感じる距離で子供と11年間いられた。子供にとってぬくもりは必須であるが、母の心も安定する。町費のパート職である「指導員」を務めて4年後、我が子はそれぞれ高校生、中学生になった。