私の仕事暦

匿名(30代)

 教育に深い興味があり、何らかの形で教育に携わりたいと思っていた私は、大学卒業後、高校教師の道を進んだ。金八先生のように毎時間“心の授業”や“友情とは”の話をしているわけには行かず、教科は英語を選んだ。
 英語教育というより、教育一般、社会問題一般に興味のある私は、英語の授業の中で、新聞記事を多く使い、生徒と共に紛争問題、飢餓問題、環境問題などを英語で学ぶ時間がとても好きだった。私が持っていることを教える、というよりも自分自身も社会とつながっており、その中で知り得たことを生徒と共有したい、という気持ちが強かったように思う。担任を持ったときは、時にクラス通信を出し、その時々に自分の感じたこと、大切に思うこと、彼らに伝えたいこと、考えてほしいことを書いた。とにかく、私は苦しみもくやしさも全て含めて、教員生活をめいっぱい満喫していた。
 しかし、いつの日か自分主導で仕事を組み立てていたものが、段々と、日常の業務に追われ、仕事をさばくのが精一杯になっている自分に気付き始めた。心の余裕がなくなり、目の前の生徒に人として向き合うことに疲れてしまったり、念入りに準備をできずにこなす自分の授業が嫌で、ますます悪循環を繰り返す日々になってしまっていた。自分の中にふつふつと、留学への思いがふくらんでいったのもこの頃だった。時間をかけて入学試験にかわる論文を書き、ついに留学が決まった時のうれしさは忘れられない。せまく暗い廊下をやっと抜けて、ぱーっとドアが開いたような瞬間だった。
 留学先も、現職の教員が主な学生である大学院のコースだった。あらゆる国の現職教員が集まり、非常に有意義な経験だった。幸いにも、その後もまた同じ職に戻ることができ、私はまた教育現場で自分を活かすことに充足感を感じる日々を送ることが出来た。
 だが、大きな選択をしなければならない時がきた。結婚である。英国留学時に出会った現在の夫が初めて手にした日本での正社員としての仕事は、私が当時住んでいた県とは異なる県での仕事であった。公立高校に勤めていた私は、彼と共に暮らすためには、それまで自分のまさに中心に据えていた仕事を辞めなければならなかった。言葉では言い尽くせぬほど悩みぬいた結果、当時の県での仕事を辞めた。それまでは、自分がそこまでにやってきた事、つんできた事しか視野に入っていなかった。そして、自分のことしか考えていなかった。そこには9年間続けてきた教員の仕事を辞めるなどという選択は存在しなかったのだ。
 しかし、悩む中で、私は、そこまでの自分と、そして初めて、これからの自分、その人生の中の今の自分の位置、というふうに、自分の人生を俯瞰して見るようになっていった。そして、そこには、共に歩むパートナーと生きるということという、それまで無かった道も追加されたのである。
 それは、当時の私にとって、華々しい、結婚退職、おめでたい、だけでは片付かない、とてつもなく大きなストレスとなる転機であった。なぜか、絶対今この選択をしなければ後悔する、ということだけは確信していたのだが。
 教員をしていない自分、を忘れてしまっていた私は、非常勤講師などをしながら、また、県立高校教員の採用試験を受験した。毎日毎日、イライラしながら、夫に当たりながら、自分の存在を確認していた。
 結果、合格を手にしたが、そこからがまた問題だった。春先になって、届いた採用先についての知らせが、一旦落ち着いたかに見えた私の気持ちをかき乱した。当時住んでいた場所からはとても通勤できないような土地への採用決定だった。一時は私が単身赴任する、などという本末転倒なことも本気で考えた。県教育委員会に相談しても、“早く決断してくれ。赴任するか、辞退するかだ。”の一点張り。泣きとおして、次の日、採用辞退の連絡を入れた。ぽっかり心に穴が空いたようだった。結婚のせいにしたくない思いと、結婚していなかったら、という思いが交錯した。
 今思えば、この日から私の新しい人生が始まった。採用試験の面接官が靴下を脱いで足を掻きながら面接していたことにも不信感を抱いていた私は、この件についての県教委の対応について、ある社会派の雑誌に投稿し、採用された。
 それまで、教員という型に、いつのまにかはまっていて、大学時代に自由に活発に議論をたたかわせていた自分をどこかに埋めてしまってきていたが、その自分を少しずつもう一度発掘していったように思う。公務員の信用、先生という責任、体面、などなど、がんじがらめに硬くなっていた自分の殻をもう一度中から叩き始めたように思う。
 人権保護関連のNGOでボランティアを定期的に始めたり、以前から興味だけは持っていた、開発教育のNGOにも顔を出し、テキストの翻訳などのボランティアをしたりした。国連会議の短期スタッフの仕事もした。みるみるうちに今までまったく無かった窓がバンバンと音を立てて開いていった。
 ちなみに、ずっと気になっていたサルサダンスを習ったのもこの時期である。そこでは、私を“元先生”と知る人はなく、ステップを踏む事がなんて軽快な気分だったか。
 教育に関心があるといって、何も、教員のみがその関心を体現する道ではない。当時のNGOでのボランティア活動の中で、つくづくそれを感じた。また、多くの教員の世界観のなんと狭い事か、(もちろん私自身も含めて)痛感した。この社会の出来事全てが、人生の教科書であると思った。そして、出会う人全てから何かしら学ぶことがあると思った。自分の小ささを改めて感じ、再び、学ぶことの楽しさを認識した。
 一方で、何か仕事をしなくてはいけない、という焦燥感もあったのも事実である。常に何かの仕事を探し、のべ100件程の仕事に何らかの形で応募しただろうか。今振り返ると、このことで、改めて自分のことを見つめ直すことができたように思う。そして、自分が動くことで、自分の歩いている人生の道も形が変わったり、無かったドアが見えてきたり、窓が現れたりすることに気付いた。それが面白くも感じた。
 試行錯誤の中で出会った、社会派のジャーナリズム雑誌とのかかわりは今も続き、この雑誌を取り巻く人々との出会いは、私にとって貴重なもので、過去の決断の数々が本当に意味のあったものと確信している。
 また、環境保護NGOで働いた経験も、自分の教育観にも少なからずの影響をもっている。いつかどこかでまた教育に結びついていくような未知の楽しみをひそかに感じている。なにより、必死にもがいて、道を作った自分にそれなりの自信を持てるようになった。
 そして、今、いくつかの困難を乗り越えて、人々の祝福を浴びて生まれてきてくれた我が子を抱きつつ、また新たな自分の側面を見つけている日々なのである。