生涯現役をめざして
T・N(60代)
1.現在の仕事と経緯
私は今65歳、社会福祉士成年後見人として主に居住地で活動している。認知症高齢者や精神障害者の療養看護、財産管理、相談や申立支援をする。
社会福祉に関わったのは、1993年50歳のときである。福祉関係の資格は3科目取得の社会福祉主事だけであり、福祉現場の経験はなかった。が、対人援助をやりたい一心で年齢制限を超えて応募し、居住地に新設の公立高齢者通所サービスセンターの生活相談員として採用された。
新規開所の施設には多方面から人材が集まる。当時、福祉現場では経験と勘が重要視された。私の場合、相談業務は書物から得た急仕込みの知識でも対処できるが、利用者の処遇面は、経験豊かな看護士や介護±には太刀打ちできない。利用者の利益よりは援助者や施設の利益が優先される現状に対して、生活相談員として提言は裏づけがないため、受け入れられないのである。
福祉職に就職後、社会福祉士という専門職のあることを知る。受験資格取得の一つの方法である福祉系の大学で社会福祉士受験資格の単位を取得するコースを選び、2年後に働きながら通信教育課程に入学する。
1997年54歳の時、卒業と同時に国家試験に合格した。が、学部在学中にソーシャルワークの分野を更に勉強したくなってきた。分野のスペシャリストが必要だと考えたからである。生活相談員は当時、生活指導員という名称でいわば何でも屋だった。
新設の大学院で社会人入学の枠に応募して入学する。平曰の夜間と土曜日開講という働く者に勉強しやすい大学院の修士課程を修了後、生涯現役を目指して実践活動している。この間、福祉が180度転換した。社会事業法、介護保険法、成年後見法など制度は確立し、サービスも措置から契約へ代わった。社会福祉士資格も認知度が上がり、専門職として社会的に周知されるようになった。
2.きっかけ
異分野から福祉に入った環境を振り返る。
転換のきっかけは、79歳で逝った義父の闘病生活である。同居の義父がパーキンソン病を発症し入退院を繰り返している時、介護はキーパーンの嫁いだ義姉に任せて、私は主婦業の傍ら、中学や高校の非常勤講師として趣味活動にも参加して、気ままに暮らしていた。その後、同居の義姉がガン、義母が心身衰弱と7人家族のうち3人が病人という状態になった。息子達は高校2年と中学2年、夫は勤務先事業所の統廃合の業務で疲れ、家庭内を顧みる余裕はなかった。
医療は命がかかっているだけに探せばあった。福祉は特に高齢者の場合は治療後の生活の場所すら探すのに苦労した。入所施設は数少なく、在宅において1つのサービスを受けるのでも役所の係をあちこち回らなければならない。そのとき、居住地の自治体が高齢者福祉事業団を創設した。高齢者福祉施策に現場から提言したいという気負いもあった。
3.原動力
年齢や体力や能力を省みることなく、闇雲に挑戦する力はどこで培われたか考えてみる。私は鹿児島県で生まれた。1961年に卒業した高等学校の修学旅行は女生徒の希望者だけ1週間関西・関東へ行ける。男生徒は卒業後県外に出る機会があるが、女生徒は花嫁修業の後、家庭に入るのが当然で県外に出る機会も少ないというのが理由である。その考え方はそのまま私の思想であり、そのまま行けば、父母の近くで受動的に生きていただろう。
1968年、日本女子大学の通信教育部に入学する。勉学と、学生寮の炊事係という仕事を得て雑司が谷の学生寮で暮らすことになった。26歳になっていたが、見聞するもの、接するもの毎日が新鮮であった。とりわけ、人々の考え方や生き方の多様性とそれを容認できる社会に驚いた。
このような変化する過程を支え、育ててくれたのが日本女子大学である。
この時期に学んだ「信念徹底」「共同奉仕」が私の指針になっている。