「セカンドチャレンジ」を「セカンドチャンス」に変える
髙山 直子(30代)
日本の4年制大学卒業を控え、周りの友人やクラスメートと同じように就職というレールに乗ることに対し、「今のままの自分でいいのだろうか」と抵抗を感じ、就職ではなくアメリカ留学を選択した私は、このとき知らず知らずのうちに「自分探し」または「自分の生きたい人生探し」を始めたのかもしれません。探究心から始まったこの道のりは、自分自身へのチャレンジでしたが、約15年という年月を経て、ばらばらだった点と点が徐々につながり線となり、今の私に心の平穏をもたらしています。
当時大学で経済学を専攻していた私でしたが、いざアメリカ留学を決心しても何を専攻するかを迷っていました。全米にある大学を調べる中で私の目に飛び込んできたのは「女性学」という学問でした。「自分が何者か」を意識し始めていた私にとって、唯一受け止められていたことは「女性であること」と「女性であるがために受ける社会的圧力」でした。しかし1992年当時、日本では「女性学」がほとんど知られていなかったため、「女性学」が何かを知ることから私の留学は始まりました。
すぐに女性学に魅せられた私は1994年ミシガン州にある州立の大学院に進み、本格的に女性学を勉強し始めました。しかし、そこで待っていたのは勉学の楽しみだけではなく、ストーキング被害という予想外のチャレンジでした。
大学院に転入して1ヶ月もしないうちに、見知らぬ男性からのセクハラの電話が始まり、初めはただの冗談と高をくくっていましたが、電話と手紙によるストーキングは14ヶ月にも及びました。女性学の修士課程にいたこともあり、友人や教授の事件に対する理解と支援を十分受けることができたことは不幸中の幸いでした。しかし、加害者が残す留守番電話メッセージの内容は、「来週レイプしてやる」などとエスカレートし、加害から受けるストレスにより顔や手の皮膚はぼろぼろに剥げ、不眠や下痢といった症状に苦しみました。警察の協力もあり、犯人を捕まえることに成功し事件に終止符を打つことができましたが、この事件を通して初めて「支援される」側となり、その経験は私に大きな傷を残したと同時に、社会的役割としての自分の人生の方向性を決める大きな要因となりました。
私は事件の渦中にいる間、幸運にも多くの人に助けられ、支えられました。しかし、「支援を受ける」という経験は、それを単に「幸運」と表現するには複雑すぎる体験でした。私を支援してくれた人たちには、今も感謝してもしきれませんが、皮肉にも多くの人から支援を受ければ受けるほど、結果的にさらに自分を辛い状況に追い込むことになりました。私は支援者との信頼関係を維持するために、事件のことなどやめたいのに止められず、泣き言も言えず、言ってもよかったのかもしれませんが、「支援される」プレッシャーから言えませんでした。このとき初めてカウンセリングを経験しましたが、結局カウンセラーにも本当の自分の気持ちを言えずに途中でやめてしまいました。しかしながら、女性学の知識とサバイバーとしての経験が、「クライアント(サバイバー)と一緒に困難なプロセスを歩けるカウンセラー」という私の生きたい職業としての青写真となりました。
女性学修士取得後日本に帰国し、東京にある女性団体に就職しました。残念なことに職場はフェミニズムの理想とは程遠く、労働基準法以下の労働条件の上に女性労働を低賃金で搾取する構造に矛盾を感じ、労働条件と環境の改善を求め職場の仲間3人と労働組合をつくりました。組合活動から労働基準法遵守の労働条件を獲得し、女性ユニオン東京の組合運動に日本における女性運動の意義を見出し、「女性の連帯」とエンパワメントを肌で感じる初めての経験でした。その後、留学費用を蓄えるためIT企業に転職し、女性学修士取得から約7年後の2003年9月にカウンセリング修士取得のため再渡米しました。私にとって二度目の留学は、未知なる分野を学ぶという意味で「セカンド・チャレンジ」でもありました。
2006年7月、カウンセリング修士課程の修了とほぼ同時に父が二度目の脳梗塞で倒れ、左半身に麻痺が残り介護が必要となり、2006年9月に帰国しました。その頃、東京・代々木にあるNPO法人サポートハウスじょむが、常駐スタッフ不在のため週に1日の活動で存続が難しくなっていると聞き、2006年11月から常駐カウンセラーとして働くことを引き受けました。サポートハウスじょむは、女性ユニオン東京が関わった東京セクシュアルハラスメント裁判の原告(被害女性)の「昼間安心して過ごせる場所がほしい」という声をもとに2002年10月に設立され、デイケアやカウンセリングサービスを提供しています。
当初、毎月の家賃と光熱費を支払うのがやっとで、最初の6ヶ月は無償で働きました。セクハラ、パワハラ、いじめなどで傷病手当や失業手当で生活する女性を中心に、カウンセリング利用が急増し、2007年は前年比3.5倍の延べ541人が各種サービスを利用するまでに成長しました。
自らのサバイバーとしての経験があるからこそ、私にできるカウンセラーとしての役割があると信じています。苦しみは簡単に癒えない、しかし私が経験から言えることは、今よりも明日、明後日、1週間後、1ヵ月後、1年後、10年後、生きていて「今より幸せ」、「サバイブして良かった」と思えることが、加害者や事件に対する最大のリベンジだということです。
現在も家族と父の介護に取り組みながら、非常に低い賃金でカウンセラーとして女性問題と向き合っています。傍から見たら今私が置かれている状況は、公私共に困難と不安に満ち溢れているように映るかもしれませんが、私の心はとても平和で平穏です。それは、私がネガティブな経験さえもポジティブに変えられる道を、そして自分らしく生きる道を見つけたからかもしれません。そして、カウンセラーとしてクライアントと一緒に歩むプロセスを通して、「セカンド・チャレンジ」を「セカンド・チャンス」に変えたことを実感でき、エンパワーされる瞬間に毎日が満ちているからかもしれません。