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「私の再挑戦」40歳子連れ大学院留学から研究者への挑戦

匿名(40代)

 私の再挑戦の始まりは九年前に遡ります。
 大学で社会学を専攻しましたが、在学当時の母校には勉強したい分野の先生もいらっしゃらず、大学院もなかったこともあり、専門分野を極めた勉強ができなかったという強い後悔が大変残っていました。その後当時ではまだ珍しかった外資系の会社に就職し、働きながら英語習得を模索しているうちに、言語習得のしくみに大変興味が湧き、「是非第二言語習得について専門的に勉強したい」と思うようになりました。そして、それが子育て後の社会復帰への足がかりになればと考えました。そこで九年前の1999年母校の東京女子大学の言語学科に社会人入学を果たしたのですが、当時2歳足らずの息子を抱えながらの勉強は時間的に大変厳しく、カリキュラム構成やその内容も私が個人的に目指すものとかなりの隔たりがあり、思い迷った末退学し、第二言語習得の専門の先生方がいらっしゃる英国の大学院を目指すことにしました。
 大学院への留学は私の在職時からの夢でしたが、結婚、出産を経て当時幼児を抱えた私にとっては更に遠のいて諦めかけていた夢でもありました。第二言語習得を学びたいと思った時から英国の大学院への留学が頭をよぎりましたが、さまざまな障害が予想でき、それを克服してまで行かなければならないという強い意志が正直言ってありませんでした。具体的には、大学院留学はかなりの経済的な負担がかかること、幼児を連れての留学であるということ、大学院留学が今後の社会復帰の足がかりになる保証はないこと、など問題は山積みしていました。実際、同じく子供を抱えて社会人入学し大学院入学が決まっていた知人にも、相談に行ったブリテッシュ・カウンシルの留学カウンセラーにも、「そんな無謀なことができるのか」という趣旨のことを言われ大変落胆したのを覚えています。しかし幸いなことに、社会人入学の失敗と叔母と主人という二人の存在が私の無謀な決断を後押ししてくれました。社会人入学の失敗は、やはり専門の先生の下で専門的に学びたい、海外で学びたい、という積年の二つの思いを再認識させてくれました。また、自身でもフランス政府給付生として当時一歳の子供を置いて留学した叔母の「気力、体力の衰えないうちにできるだけ早く」という言葉、それから主人の「やってみなければ分からない、少しは役にたつだろう、賭けだと思ってやってみれば。」という一言が私の最後の迷いを払拭してくれました。
 2000年、四十歳の私は、当時三歳になったばかりの息子を伴い渡英しました。幼児を連れての英国での学生生活は予想通り大変なものでした。その苛酷な体験は、私のその後の人生にとって大きな自信をもたらす大変貴重な財産になりました。私にとっては勉強面よりも生活面での苦労が本当に印象に残っています。単身留学ではほとんどが寮に入るので、家や水道、電気、電話など到着日当日からの生活の心配はないのですが、子連れではそうはいきません。事前に渡英した家探しの際には人種差別も経験しましたし、到着直後は、現地で安価な家具を買い自分で組み立て、電化製品をそろえ、日本からの寝具や衣類、食料など生活必需品一式が届くまでの息子との数日間は本当に心細く地獄をみた心地でした。落ち着いてからも、子供の病気や予防接種、家主や不動産業者との交渉や、保健婦さんの訪問や、住民税の誤請求による役所担当者との交渉、また悪質電話業者の度重なる過剰請求へのクレームなど雑用に追われる日々が続きました。一方、勉強面での最大の課題は勉強時間の捻出でした。息子は朝早くから夕方まで大学付属の保育所に預けているので平日昼間講義中だけは安心して出席できました。が、帰宅後と週末は全く勉強できません。そのため夜中の2時ごろから息子が起きる6時半頃までが貴重な勉強時間でした。
 1年が経過し、私も息子も生活に慣れ、勉強も軌道にのった頃、已む無く帰国しなければなりませんでした。背水の陣で臨んだ甲斐もあり無事修士号を取得しての帰国でしたが、その直後に息子の幼稚園入園、小学校の受験準備が控えていたこともあり、帰国後は、毎日主婦としての生活に追われ勉強の継続は断念せざるを得ませんでした。実際、在英時の無理が祟ったのか帰国後一年以上体調を崩しては寝込むことが多々ありました。
 2001年に帰国して以来三年間、専業主婦として家事、育児に専念していた私に、働くきっかけを与えてくれたのは主人でした。塾の英語非常勤講師に応募してみてはどうか、と新聞の求人欄を差し出したのです。息子の受験の失敗で自信を喪失し意気消沈していた私の立ち直りのきっかけになればと思ったそうです。運良く日曜日のみの担当講師として採用され、遠距離通学となる新一年生の息子のサポートにも支障のない社会復帰のささやかな一歩を踏み出すことができました。
 週一回ながらも仕事をするといいうことは、私にとって大きな充足感を生み出しました。息子が低学年の間は家庭での生活や勉強の習慣の確立を最優先にすべき、と考えていましたので、迷わず週一回の仕事を選び、そして続けてきました。しかし、息子が成長するにつれ、やはり勉強の継続と本格的な社会復帰への夢が頭をもたげてきました。私が修了した大学院では、修士号を同大学院で取得し一定の成績を修めている、指導する教官の承諾がある、年一、二回渡英する、などの条件を満たした学生については、博士課程に限りディスタンスコースという課程が許され、日本にいながらにして博士論文に取り組むことができるのです。そして遂に、これも思い悩んだ挙句、2006年にそのディスタンスの博士課程への入学を決意しました。それはやはり、第一に、修士論文で取り組んだ日本人の英語習得の初期状態についてもっと深くじっくり勉強したい、という思いが強く残っていたためと、第二に、そのままで勉強を継続して博士号を取得した修士課程の時の若い友人と主人から同時に、博士課程での勉強の素晴らしさと博士号取得の重さを説かれたからでもありました。
 2006年に入学して以来、日本にいながら勉強を続ける難しさを痛切に感じています。実験は辛うじて終わったものの、論文の方は読む方も書く方も遅々として進んでいません。その上、入学当時割安だった学費も高騰し、ポンドも高くなって納入額は当初の予想をはるかに上回り、結婚前の貯金も課程修了の5年を待たずに底をつくのは時間の問題となりました。そのため、勉強を続けるには本格的に仕事をしてお金を稼がなくては、という強い危機感を持ち始めました。折良く、息子も四年生になり、生活、学習面でも自立し始めた時でしたので、2006年の秋から2007年の年頭にかけて新聞の求人欄で募集していた塾や専門学校、大学、英語学校など大小合わせて六箇所に応募しました。そのうち五箇所で不採用となり、本当に運良く、第一志望の英語専門学校に採用されました。摸擬授業のため長時間準備したり、長時間の英語の試験を受けたりしてもあえなく不採用となったときは本当に落胆しました。が、第一志望の学校に採用された時は、ここに採用されるために私は今まで不採用になったのだ、と心から思うことができました。昨年2007年の四月からTOEICの授業の担当非常勤講師として3クラスを割り当てられましたが、実際二十人から四十人近くの学生の指導は本当に試行錯誤の連続でした。とにかくできることは何でもしようと決意し、手間や時間や結果を厭わず一生懸命取り組みました。
 努力の甲斐もあって、秋には同行の系列会社の派遣講師として企業のTOEIC講座を担当するようになりました。今年の四月からは系列の大学の非常勤講師に推薦して頂き、やはりTOEICを担当する予定になりました。しかしながら、実際には、仕事も勉強も中途半端で障害も多く、再挑戦の道半ば、というところです。が、私は、長いブランクもあり、途中の休みもあり、でしたので、今は「修業の期間」だと全てを前向きに受け止め、第二の人生に向けて、諦めずに、苦労を楽しみながら、目標に半歩でも一歩でも近づくしかないと思っています。
 奇しくも、今年の一月に2回東京都再チャレンジ講座のTOEIC講座を担当しました。その受講者の方々の熱意に接し、自分の来し方を重ねていました。私自身の外資系会社在職時の二十数年前のTOEIC受験経験や子連れ留学の話、また自らの学習経験や第二言語習得の観点からの英語学習法などもお話しして大いに共感を得、熱心な質問を多く受けました。この講座を通じて、私のような「平凡な主婦の失敗の連続」という見本は再チャレンジを目指す方の勇気になるのではと思い、まだまだ再挑戦の途中ではありますが、拙い文章を寄せてみました。ご研究のお役に立つことができれば、と心から願っております。
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