Turning Point(転機)

芳賀 雅子(50代)

 私は53歳になります。27歳で結婚するまで7年間、幼稚園で仕事をし、結婚してから保育園に仕事を移し、3年間保育士をしました。子どもが出来るまで仕事をしようと思っていましたが、夫の転勤で札幌の仕事を辞め、5年間地方の暮らしを楽しみました。地方でも保育士の仕事を探すと見つかりましたが、その地方特有な活動をしたかったので、仕事はその合間に、臨時保育士として働きました。初めて仕事以外での楽しみを見つけました。ある地域では、メロンとスイカ、ホワイトアスパラの手入れ、収穫を手伝ったり、大豆で豆腐作り、味噌作りをしたり、冬はスキーに熱中し、検定2級を受けるグループに入り毎夜スキーばかりしていたこともありました。ある地域では、乗馬に熱中し、3年間、毎朝4時~5時に起床し、馬の手入れ、乗馬の練習をし、最後の3年目は北海道で開かれる大会に出場しました。夫の転勤がなければ、保育の仕事に専念していたと思います。仕事をしていたら社会との繋がりが密になり人間的にも成長すると思い込んでいたのですが、仕事を辞めて初めて自分自身の時間を持つことで、人間的、経験的に豊かになることを感じ、今までの思いが少し違うことに気がつきました。最後の転勤の地では、英語を話す機会ができ、英語の勉強を20年振りで再開してから、世界に目を向け始めました。それが数年後には、通訳ボランティア・ホームステイ協会登録と、世界中の国々の人たちとの交流のきっかけとなりました。
 札幌に帰ってきてから、半年後に子どもが生まれ、子育てが始まりました。初めて自分の子育てで、驚きの毎日でした。思うように子どもは育たないことに気付き、自分が保育士や幼稚園教諭をしていて、保護者達に厳しいアドバイスしたことを反省しました。又、地域密着で子育てすることの大切さ、子育ての悩みを聞いてくれる友達の大切さ、たくさんの同年の友達を持つ大切さを知りました。しかし、仕事ではなく子育てに集中することは、自分の名前が消えてしまうことに気が付きました。「○○ちゃんのお母さん」「○○ちゃんママ」これが私の名前です。子育ては楽しいのですが、自分自身が見えず、時々息が詰まりました。そこで、自分自身を見つけるために、妊娠前から始めた英会話を子どもが寝た時に始めることにしました。ラジオ英会話、ラジオ英語講座初級、中級、上級、これを1日2回聞くようになりました。2年間聞きつづけた時に、ある友達から子育てしながら英会話の勉強をしているサークルを紹介してもらい、娘を連れて、週1回、通い始めました。そのサークルは娘が小学生になって子どもと一緒に通わなくなって8年間、合計12年間(今から2年前まで)通い続けていました。
 1999年の秋、我が家に1通の手紙が届きました。それは、私が卒業した短大からでした。それには、短大が春から大学に変わるので、3年生に編入の誘いでした。私にとっては、晴天の霹靂でした。でも、その手紙を手にした私の心臓はドキドキと鳴っていました。その時の私は、46歳。40歳過ぎた人の多くは、自分の今までの軌跡を振り返る時期だと思います。「このままの自分で良いのだろうか?」「人生はこのまま年をかさねていくだけなのだろうか?」と思う時期がきます。私も、私の周りの友達も、その疑問を持ち続けていました。「とにかくやれる事から行動しよう。いつ何かチャンスがきても、そのチャンスをつかめるように、出来る事から力をつけていこう!」その言葉が私たちの合言葉でした。大学の編入の要綱を手にした私は、「これがチャンスなのか?」と何回も自分に問い掛けました。家族や友達に相談すると「自分で出来る力があると思うなら、ぜひチャレンジしなさい!」という励ましの言葉でした。1ヶ月後、入学試験と面接を受け、2000年春、大学3年生になりました。
 大学の勉強は、25年前の勉強とは大きく変わっていました。一番大きく変わっていたことは、何事も自分自身で考えるということでした。例えば担当科目の先生に、「○○について、学べる本を紹介してください。」と頼むと「自分にとって良い本か否かは、同類の本を何十冊読んだ後に自分で考えるものだよ。」とあっさりと言われました。又、私の専攻は保育学ですが、それらの科目では、今までの自分の子育ての良いことも悪いことも活字になって現れました。第3者的立場で自分の子育てを考えることが出来て、とても面白い授業ばかりでした。大学2年から上がってきた若いクラスメートは「よく眠らないで授業に参加できますね。」と言われましたが、私は反対に「こんな面白い授業を、よく眠れるね~!」と言い返していました。講義をする先生方も、眠らないで目をらんらんに輝かせている私達数人に近寄って授業をしていたものでした。大学生生活は、忙しかった!の一言でした。ボランティア活動が毎週土曜日に入り、平日も授業がフルに入り、卒論時は、子育てを忘れて研究にこもっていましたので、当時小学校4年生の娘は寂しい思いをしたことでしょう。
 実習・卒業論文を書き、2002年春、卒業しました。卒業後、保育士として働いていた時にお世話になって園長先生(今は退職して専門学校の保育学科長として在職中)から、専門学校で働いてほしい旨申し出があり、その年の秋から非常勤講師として働き始めました。初めて教壇に立ち、ドキドキの連続でしたが、学生達は、園児のような可愛さがあり、その中で、また新たな学びが多くありました。非常勤講師をして3年、もう少し学びたいと思い、仕事をしながら、大学院に進みました。51歳の年でした。
 今現在、1年に4教科を担当し、学生を保育士として巣立つお手伝いをしていますが、自分が自分らしく教えているのは、今までの経験があったからだと確信しています。ホームステイの活動の中で世界中の人たちと交流し、娘の小学校で始めた読み聞かせのボランティアは、その会員達と小さな劇団を立ち上げ、いろいろな作品を作ったり、地域の人たちにお披露目したりする中で、いろいろなことを見たり、いろいろな人に出会い、考えたり、学ぶ中で自分が日々成長している事を感じます。「人生は息を引き取る時まで学びがある」これを意識して生きていく事が自分の成長にも繋がるのだと思っています。
 チャンスは、一人ひとりの目の前を通り過ぎて行くものです。それを自分のチャンスだと思うのか、又、それをつかみ取れるだけの力を日々の生活の中で培っているのか、それがチャンスをつかもうとするTurning Pointなのだと思います。私にも何度かのTurning Pointがあり、それを必死でつかんできました。つかめばつかむほど次のステップは、より厳しいものでしたが、自分の世界は広がり、深みを帯びてきます。
 さて、私の次のTurning Pointは・・・そろそろ目の前に現れそうな気がします。