私のセカンド・チャンス――働き続けるために
K・S(60代)
子育て期間中の約十年間は経済的な自立を果たすことができず、家事の中にそれなりの喜びはあったが、自分の社会的価値はかなり低いという感覚があった。とはいっても働いていないのに保育所は利用できず、出口が見えなかった。「もうだめだよね。」という、当時は25歳過ぎてしまったら、まともな就職口は見つからないというのが友達の間では合言葉だった。
3番目の子どもが小学校に入学し、子どもに手がかからなくなったのと、慶応義塾の通信教育で哲学心理学の学士を取得したのが同じころだった。そこで懸案だった自分はどのようにしたら賃金を得られ、自分で食べていけるのかという道を探り始めた。34歳だった。
通信教育が修了した時点で大学の就職課に相談に行った。担当の職員は「大学の就職課は教育の一環でやっている業務なので。」とのことで、「トラバーユ」という雑誌を下さって、「貴方のような人は雇ってくれるところがあったら、どんなところでも働きなさい。そして一生懸命働いて認められるようになりなさい。」というアドバイスをくださった。はじめから判っていた答えだったにもかかわらず、思わず職員室で泣いてしまった。通信教育での卒業資格取得は大変だったのに、就職には何の役にも立たないのかとの口惜しさと、当時経済的に働かなければならない現実に直面していたためだった。
この現実は落ち込みながらも、働けそうな口はないかと自分を駆り立てる要因にもなった。新聞の求人欄をくまなく探し、年齢制限の無い職を探した。今でも求人欄は自分の中のトラウマとなっていて新聞の求人欄を読むのは当時の恐ろしい気持ちが引き起こされることがある。
新聞広告を見て面接に行った先は派遣会社で、その派遣先で働き始めて2週間目に正社員のお話をいただいて、それから12年間勤めることができた。「貴方のような人」でも雇って下さる企業はあったのだ。実際には日本女子大に登録制度があり、「卒業祝いに登録してあげたよ」と、通信教育の友人がしてくれた日本女子大からもその後仕事のお話をいただいた。調子よくいったような結果ではあるが、12年後その会社が日本市場から撤退すると又求職活動をしなければならなかった。企業に就職する場合、常に年令の壁は高く、厚い。休職中は不安で一杯だ。
その後、50代で総務部長というポジションで雇ってくださる外資があり、採用を担当した。実際に採用担当になると、高齢、人生経験が豊富というのは邪魔にこそなり、企業採用においては不利な条件と再認識した。経験を積んだ物知り顔はうっとうしい。新鮮な気持ちで、新しい仕事に取り組む姿勢が求められる。雇われる側であった時は必死だったのに雇う側になるとそのように思う自分がいた。
職場を失うことは、賃金をいただけなくなり、すなわち食べるものも買えなくなる。大げさかもしれないが生命の危機だ。「それより健康が大事」「愛が大切」と言われても私は、「お金が大事」だと思う。
私は働きながら自分のキャリヤ形成のためにスキルを高めるなんて考えたことはない。日々の努力はあたりまえだ。しかし総務部長になって、企業のミッションやヴィジョン、経済用語等若いアメリカから来るマネージャーについていけない自分がいた。乳がんの手術のあと1年も経っていなかったが、退職し、少女時代からの憧れの留学を55歳で決行した。オーストラリアでMBAを取得した。英語での勉強と外国生活は貴重な体験であったが、それでスイスイと再々就職できることはないだろうと思っていた。また、「自分で起業したら。」と言われることがあったが、自分一人で何かしたいとか、希望の事業案は浮かばなかった。学校での勉強は私にとっては就職にどれほど役に立ったかは実のところわからない。懸命に勉強したというのはあるかもしれないが、それが適切な努力であったかもわからない。
今62歳になってまだ使ってくださる会社があるということはありがたいことだ。現在の顧問先は、義兄の親友の恩師の知人の後輩の方に受け入れていただいた形になった。
12年勤めた後、米国電子協会というアメリカの業界団体でのポジションに就けたのは、友人がタイで働くので、空いたポジションに来ないか、と紹介されたおかげだ。その職場が2年で契約が切れた後、米国電子協会の所長の紹介で米国商工会議所でのパートタイムの仕事を紹介され、「賃金が安い」という理由で断ったところ、商工会議所担当者に「当方の求職欄に『仕事を求める』という有料広告記事を書いたらどうですか。」と薦められるまま掲載したところ、それが来日中の米国本社の担当の目に留まり、総務部長のポジションを掴んだ。
振り返ると、10代で身につけた英文タイプがパソコンへの移行をたやすくした、泣いてしまったけれど慶応の就職課で「職を選ばず、採用してくれたところで一生懸命働き、認めてもらうこと」が頭からはなれなかったこと、助けてくださった人々とのご縁があった、ということが働き続けられた今があるのではと思う。