私のセカンド・チャンス

匿名(50代)

 誰が、自分の人生を予測できたであろう。ましてや、自分が女性である場合には、自分以外の考えで生き方を左右されることが多いからだ。しかし、負けてはならない。現代は女性に開かれた時代であるから。
 私は女の人も一人の人間として職業を持って自立して生きてゆきたいと思っていた。
 私が多分、最初にぶつかった言葉は、父の「女に学問はいらない」ということだった。私の大学進学の時は、日本中が学生デモで揺れていた。父はストライキをしている学生が理解できなかった。どうしても行きたいなら国立大学一つだけ受けさせてやると言った。その頃、女の人の大学進学率は五人に一人の時代であり、四年制卒の就職難という記事が出て一層反対された。機動隊に囲まれ、答案を書いた。君達は、なぜ大学へ来るのかと詰め寄られた。
 就職の年もオイルショックの厳しい時代であった。教員試験、公務員試験、裁判所、労働基準監督官、果ては消防官の試験まで受けた。毎週、受験し、母は文句も言わずに弁当を作ってくれた。その中で一番むずかしい国家公務員中級試験に受かって大阪へ行くことになった。面接の時、「女の人はいらない。どうしても入りたいなら、文部省か厚生省に」と言われ、「絶対やめません」と懇願し、大阪大学基礎工学部に採用された。研究室の教育研究補助の仕事であった。ここで現在の夫と知り合い、富山へ嫁することになった。
 夫は富山大学へ就職し、新婚早々離ればなれになった。結婚したからとやめたくなかっった。「ほっておくと浮気をするわよ」と義母に言われ、一ヶ月に一度、雷鳥に乗って富山へ通った。折しも富山医薬大が開学されたこともあり、半年で転任することができた。この時、周りから、とやかく言われ辛かったので、「夫婦が離れて暮らすとき」と朝日新聞ひとときに投稿した。三人の子をゼロ歳児の保育所に預け、十四年間働いた。産休を取る時、乳飲子を預けた時、そんなにしてまで働きたいのかと言われた。日本の社会では、一度やめてしまうとフルタイムでの正規雇用はむつかしい。ましてや公務員でも然りである。雑多な仕事を背負わされ、使い捨ての場合が多い。自分の労働が正しく評価されないはがゆさに、婦人少年室の「女性の社会参加をすすめる」意見募集に応募し、「女が女であるための閉鎖性」を訴えた。
 夫の父は町長をしていた。私達は選挙に合わせて子供を産んだ。私が勤めていた時、ゼロ歳児保育所のある富山市に住んでいた。長女が小学校二年の時、夫が親を手伝ってやりたいと上市に引っ越し、同居することになった。私の職場までは遠く、義母が子供をみれないからと私がやめることになった。私にとっては、生き方を変える一大決心であった。子どもは上市から電車に乗って富山大学付属小学校へ通った。そこには、PTA活動とお母さん達の読書、美術、書道、卓球などのサークルがあった。私は自分の生きがいを持つべく、小さい頃から父に習った書道を選んだ。二歳半の長男を背中に背負い、入部し、早や二十年を迎えた。左ききの私が雅号をもらい、昨年理事になり、毎日書道展に出展するまでになった。心の葛藤や、自分のテーマを書に表現し、わずかの時間の中で書き、いつか書家になれたらと夢見ている。
 子供達も二人三人と大学へ同時に通い、教育費が苦しくてパートに出た。毎日五時間労働だったが、身分が不安定で景気の調節弁でやめさせられてしまった。その時、生協の活動に誘われ、現在、商品委員長、夢ふうせん委員長(組合員活動)をしながら、生協運動や福祉活動に参加している。
 子供達も成人し、長女はこの度、水産学博士号を取った。次女は、東京の病院で主任として働いている。長男も父親と同じ物理を志し、研究者をめざしてがんばってくれている。子供達は、親の夢であり、自分の復活の姿でもある。私達は今、六十歳を前にして自分の老後をどう過ごすかサードライフの入口にある。九十九歳、九十四歳の老親の介護をしながら、どう生きていくかということも含めて、どう死ぬかということを考える毎日が多い昨今である。人間の生命は重たい。最後まで、人間としての尊厳が守られる生活がしたい。
 若いあなた方は、私達の体験から何かを学んでください。自分の生き方のビジョンを持ち、そのための努力を惜しまないでほしい。本当に生きてきてよかったと思える生き方を、自分の力で選び取ってほしい。私達は、そういう幸福な時代に生きているのです。