女性のセカンドチャンス
松本恵美子(60代)
私は学生時代より本を読むのが好き、文章を書くのが好きだった。決してその方面の能力に秀でたわけではなかったけれど、とにかく単純に好きだった。大学は文学部に行って、文学といつまでも寄り添っていたいと思っていました。しかし、中学生の時、肺結核になり、3年間の闘病生活を強いられたのです。従って3年遅れの高校卒業となりました。その時点でもまだ、私は大学に行って文学の勉強をしたいという思いはありました。けれども40数年前のこと、女性が大学迄というのはやはり選ばれた者というイメージがありました。まして私は21歳になっていたのです。幸い私の通っていた学校はミッションスクールで、進学校でもありました。ですから先生方も私の年令など関係なく、就職希望の申し出をしない限り、大学進学という選択肢しかありませんでした。親は大学に行くよりも早く嫁に行ってほしいと思う様なご時世でもありました。そういう回りの状況の中で学校、家庭、友人等に恵まれ、年齢も考慮の上、短期大学栄養士科に進学した。そして、ありきたりの学生生活を過ごした。
やがて結婚し、二人の子供を授かり、子供が物心つくまで分刻みの生活に追われ文学とは程遠い生活が続いた。ようやく子供に手がかからなくなると再就職し、少しは回りを見渡せる様になった。すると家庭の草木を眺めては五七五と広告の裏に書き留める様になった。俳句、短歌、詩、散文と少しずつ書くことに目覚めた様な気がしました。書いたものを誰かに見てもらいたいと思う様になっていったのです。雑誌や地方紙などに投稿するまでになりました。時には採択され、短歌などを載せていただいたこともありました。ある時、通販の本(茶の間)に投稿したことがキッカケで取材を受けることになりました。主人と私の顔入りの記事を目にした時には、いつも無愛想な主人がとても喜んでくれました。私ももちろん嬉しかったですよ。通販と言えども全国誌に載るなんて。そんなこともあって少しでも思いついたら走り書きをして、書きためておりました。先頃も五行歌恋の歌の募集があり、ダメで元々と思い応募しました。思いがけず、作品集の中に入れていただくことができました。送付されてきた本を娘に見せると「お母さん作家デビューだね!」と言ってくれました。作家という程大げさなものではないけれど、心の中ではちょっぴり満足。早速その本を町立図書館に置いてもらいました。自分が書いたものを人に読んでもらう。恥ずかしいけれど、嬉しい微妙な気持ち。
『我が詩(うた)が 活字になりし 現実に
この高揚(たかぶり)を 如何様(いかよう)にせむ』
その時詠んだ歌です。
今でも時折、石川硺木の『一握の砂』『悲しき玩具』をひもといています。少女の頃から、心酔していた人。
『ふるさとの 山に向いて 言うことなし
ふるさとの山は ありがたきかな』
この歌に出会う度、あの頃の純粋な気持ちに戻ることができ、心が甘酸っぱいうずきを覚えます。あゝ文学っていいなァ、しみじみ思います。
再挑戦と言える程大きなものではないかも知れませんが、私にとっては、少女の頃の夢がずーっと潜在的にあり、後年そのことを、再び自分の中に見い出したことは、私にとっての生きる喜びになってるかも知れません。
思いつくことをメモし、忘れてしまった漢字を辞書で確める。ボケ防止を兼ねて、生活のいきがいになってると思います。今こうして、この文章を書いていること自体とても楽しい至福の時間をもたらしているのですから。
そして、大学の文学部の聴講生になり、「源氏物語」を読み、「つれづれに奥の細道」を旅など出来るといい。そんな夢はいつまでも、持ち続けたいと思います。