チャンスは何度でも

石川 やなせ(60代)

 私は現在環境NPO「樹木環境ネットワーク協会」・「こぴすくらぶ」・「おどろ林せせらぎの森」に所属し、森林保全活動をする傍ら子供たちとの自然体験活動に参加しています。この活動は、一度退職した私が生き方を模索して獲得した2つめのコースにあたります。
 昭和46年末、東京都の中学教員であった私は育児と仕事を両立させる環境が整わず退職し、心ならずも7年間主婦として育児に専念することになりました。退職の挨拶の時、無念の思いに駆られた私は生徒達に「私は必ず新たな道を見つけるから、君たちも見ていてほしい」と言って別れを告げました。30歳の時でした。
 
 一回目の挑戦
 子供が小学校の中学年になると主婦業も時間に余裕が出て、再び教壇に立つことを考えました。県の教育委員会に電話をすると「とりあえず履歴書を送って下さい」と言われ履歴書を送りました。そのまま時間が経過し履歴書を出したことも忘れた頃に、干葉県立K高校から電話があり、非常勤講師として10ヶ月間勤務しました。
 その時の校長が正規の教員としての採用試験を受けられるように取りはからって下さり、その翌年採用試験を受けて合格。K高校の教員として採用していただきました。38歳の時でした。教員であった夫が病気のため退職し生計の道を断たれた私にとって、S校長と千葉県に対して言葉では言い尽くせない感謝の思いでいっぱいでした。その後定年退職までの22年間は文字通りお礼奉公のつもりで仕事をさせて頂きました。
 高校教員の経験がなかった私は、初めて自分より大きく髯をはやした高校生と向き合ったときはたじろぎましたが、彼らは実に素直な優しい少年たちでした。そして好意的な管理職や親切な同僚に恵まれて、思いがけず楽しい学園生活を満喫させて頂きました。
 K高校は進学校と言われる高校の一つでしたが、私はここでふたつの栄冠?を手にしました。初めての女性担任、初めての女性の進路指導主任です。いずれも「本校初」と男性の方々から祝福を受けたとき、干葉県、特にこの学校はこんなにも時代遅れなのだと感無量でした。その後少しずつ女性担任が増え、女性の学年主任も生まれて、私はこの学校の女性にとっての先駆者たり得たと内心うれしく思っています。女性教員が早朝出勤して男性教員にお茶くみをしていたのも、生徒指導が優先だからと言ってやめると他の女性教員も追随することになり、「助かった」と同僚の女性たちから感謝されました。

 二回目の挑戦 
 K高校に13年間在職し、校長の計らいでA高校へ転勤しました。夫の病状が重く、病院に近い勤務先をとの希望を叶えてくれたのです。52歳の時でした。
 退職後の生き方を視野に入れなくてはと考えはじめたころ、新聞で「樹木・環境ネットワーク協会」が森林保全や植物の知識にかんする検定試験(グリーンセイバー検定)をするということを知りました。早速テキストを取り寄せ受験をしたところ合格。気を良くして次年度はアドバンス(中級)を受験して合格。翌年、夫の病状が更に悪化し勉強会にも出られず、記念受験のつもりでマスター試験を受験したところまた合格。
 これまで森林保全活動に興味はあっても活動に参加する機会はなかったのですが、ここで得た資格を生かすためには行動を起こすしかないと思い、退職をきっかけに森の手入れに参加しました。そして、初めて鋸を使って竹を伐る姿をたまたま取材にきたNHKのカメラマンにキャッチされ、テレビで放映されてしまうという栄誉?に浴したのでした。
 かねがね自分の考え方が世間に通用するものかどうか自信のなかった私は、船橋市が「環境審議会委員」を公募していたので小論文を送ったところ合格し、平成14年5月から2年間環境審議会委員として環境条例の審議の場に出席することができました。
 このときの環境保全課や、干葉県の「エコマインド講習会」での人との交流を通じて船橋市内の環境団体の方々と知り合うことができました。そして船橋市農水課主催の「森林の学校」で森林保全活動について学び、その時の仲間を中心に森林保全団体「おどろ林せせらぎの森」を立ち上げ、併行して「こぴすくらぶ」というNPOの立ち上げにも参加、森林施行規則に基づく森林整備活動に汗を流すことになりました。荒廃した森の手入れをし、竹を伐り、樹木の種を播き育て、荒れ地にその苗を植えて、森の再生を図ります。
 とても危険で・汚い・きつい仕事ではありますが、仲間との連携、緊張感・・自分の求めていた世界がここだったのだと思うほど充実した学びの世界です。それに森の作業で伐り落とした藤蔓を使って藤布を作ろうと新たな取り組みを始め、糸をすこし取り出したところです。私の挑戦はまだまだ続きます。