私のセカンドチャンス

匿名(40代)

 現在の私は、ITベンチャー企業でプログラミングの設計、管理、プログラミングも少々とインフラ管理、運用を行っています。独身時代にプログラマーをしていて結婚を機に退社、その後ブランク約10年を経て、この職種にいわば戻ってきて、かつ、やりがいのある内容に取り組めていることを幸福に感じます。
 家庭問題からの別居と離婚で一度は職を失った私が望んだことは、若いときに取り組んでいたIT系の技術を活かしてシングルマザーとしての生活の基盤を作ること、かつ、新しい分野に取り組んで学び、成長しながらその成果を社会に役立てることを実感できる職場にいること、でした。そして、それは別居を始めてから8年経った現在、ほぼ実現できたというところまで、やっとたどりついています。これからもやりがいを感じながら働き続けたいと思っています。
 これまでのいきさつをおおまかに書きます。
 1989年 23歳 東京でプログラマーとして就職。プログラミング、進行管理、ドキュメント作成、サポート・インストラクター業務を学ぶ。
 1995年 28歳 結婚のため退社 他県へ。
 プログラミング自営の夫と二人暮らし。技術翻訳(プログラミング系)をアルバイト的にしながら家事。
 1997年 32歳 娘を出産。
 この頃より、夫の暴言、暴力、仕事しない状況が始まる。その中で育児と翻訳仕事。
 2000年 35歳 数度の家出のあと、娘をつれて本格的に家を出て東京へ。
 (娘3歳)女性支援団体、DV被害者支援団体、地方自治体からさまざまな支援を受けて、子どもとの生活を始める。夫の追跡を避けるため、実家にも連絡せず、身を隠して仮名で生活。これまでのコネがすべて無効に。
 (娘4歳)
 2001年 36歳 図書館で見た女性の働き方の書籍の著者に電話をかけ、相談に行き、その事務所でパートの仕事を始める。都心、通勤1時間。
 保育園の待機状況の厳しさや、仕事に就くまでの面接時の預け先があまり存在しない事実に直面。(ただし就労後はすぐに入園できた)。仕事内容はダウン誌の広告営業とライティング。
 時給扱いで900~1000円だった記憶。
 子どもの発熱等でたびたび急な休みをもらう。責任ある仕事を引き受けられない状態にはがゆさを感じつつ、職場の協力を受けて働き続ける。

 (娘5歳)
 2002年 37歳 賃貸の古い木造アパートに常時接続(当時ISDN)を引いて、PCを個人リースで入手。時間拘束の短い仕事や自宅勤務の情報を探す。コピーライティングの仕事、メルマガライターの仕事、自動翻訳ソフトウェアのための基礎データ入力の仕事等を自力で獲得。
 これらの量がある程度増えてきたところで、前職のパートを辞めてフリーに。上記の各仕事は時給にして1500~2000円程度。ただし、常時あるわけではなく待機時間がある。
子どもの健康や、帰宅時間の縛り(午後6時15分に保育園が閉園)から考えて、気分的にずっと楽になる。
(ただしこの期間に働きすぎて腎孟炎を経験。本来なら入院するところを子どもの送り迎えをしながらで2週間の安静を余儀なくされ、その後の仕事のペースも調整を入れることとしました)。

 (娘6歳)
 2003年 38歳 女性支援団体に会員として登録し、手伝えるボランティアなどにときおり参加していた。その団体がNPO化することとなり、事務局を担当しないかという話を受ける。時給にすると800円台でこれまでで最安だが、PCスキル、ライティングのスキルを活かせること、人との関わり、デイレクション等を学べること、なによりDV離婚しようとしている自分に最新情報や同志の存在を知ることのできる場所で働けることを心強く感じて即応した。
ここではイベント企画運営(400人入る会場での親子コンサートを成功させた)、NPOの知名度を上げること、ボランティア会員の方々への作業依頼、会員管理、会報編集・メルマガ作成発行、PCインフラの補佐、サイト管理・掲示板管理と更新(1日5万PVのサイト)の進行管理、収益事業としてのライティングの営業、デイレクションなどを経験。
 また相談員としての勉強もし、同団体での認定カウンセラーとなって電話相談やスタッフ・会員の悩み相談にも応じた。
 子どもは小学校に入学し急な発熱やカゼをもらうなどもぐっと減る。学童とファミリーサポートの併用で、通常は7時帰宅やときには9時半帰宅が可能となり、やっと本格的に仕事できる体制に。
2004年 39歳 裁判離婚(一度控訴され2度目で)成立。仕事上では仮名のまま。
 (娘8歳)
 2005年 40歳 仕事上で加入したSNSで、かつての上司が私を見つける(仮名での登録だったが、母校・仕事歴・得意分野と、下の名前と、画像から私かもとメッセージを送ってくれた)。近況を話すと驚き、しばらくして知人がITベンチャーで起業するが面接を受けないかと紹介をしてくれた。面接を受けたところ、ブランクは長いがプログラミング経験があること、これまでの仕事で対人・団体運営スキルを持っていることなどを評価され、正社員に雇用されることとなった。
NPOではちょうど後継可能な担当者が現れたところでもあり、協力・応援を受けて、当初は起業数ヶ月後からの入社予定を早めて起業のタイミングから入社できることになった。

 以後、旧姓に戻した本名での露出を再開。独身時代のスキルを活かしてプログラミングの企画・設計、管理、プログラミング、インフラ管理、運用と総務関係の仕事に携わって現在に至ります。
 IT業界は日進月歩ですが、最初につけたスキルがUNIXという現在でも基礎知識として活用できる筋のよいものであったことが多いに幸いし、半年程度で最先端の軽量言語でのプログラミング現場に復帰できました。その間に、XMLマスターという言語資格も取得。2007年には、私が進行を担当したプロジェクトで、軽量言語により1ヶ月で作成したWebサービスがSunおよびリクルート社による「Mashup Award 3(rd)」で部門賞を受賞しました。現在はそのサービスの運用・改善とともに次の企画に取り組んでいます。
 プライベートでも、ここ2年ほどで学生時代・独身時代の知人との交流が再開しつつあります。学生時代からの趣味であるジャズを歌うことについても、セッションやライブに参加できることが増えてきました。
 家庭問題により過去の経歴を活かすことができず、本名が使えないほど社会的(=経済的)ダメージを受けた状況、さらにメンタルにもおおいにダメージを受けて自信喪失した状態からここまでの間、人の縁が与えてくれたさまざまなチャンスを掴みながら望む方向への前進をしてきたと感じます。
 幸運と努力と、その両方でできた梯子を上ってきたように感じています。
 あまり事情が単純ではないため、「セカンドチャンス」というテーマにどれほど合致するかがわかりませんが、もしも私の経験がお役に立つことがあれば嬉しく、応募することにいたしました。
 規定より長文になってしまいました。お読みいただき、ありがとうございます。