熟女のセカンドチャンス

石井 初枝(50代)

 私の故郷は横浜である。父の仕事の関係で沢山の米兵やその家族達と触れ合う機会が多かった。幼い私や弟に優しくしてくれて、そのせいか、日本人と外国人の差異を特別に意識せずに育った。
 大人になるにつれて、複雑な国際問題や民族の歴史の問題を知るようになってからは、負の部分の深さに悩み、地球の裏側の人々へ思いを至らすことも多くなった。英語の授業に自然と力が入り、高校3年の冬の進路を決める時期になっても、大学に行くことを目指していた。学ぶだけ学んで力をつけ、人々の幸福と平和のために尽くしていきたいと、若い心で心底願っていたのである。しかし、中学1年の時に父が借金を残して死んでしまってから子供3人を女手ひとつで育ててくれた母に、「道子(私の姉)も我慢したんだからあんたも我慢して働いておくれ」と言われて返す言葉が見つからなかった。
 泣く泣く就職したが、「いつか、きっと」と夢を持ち続け、多忙を極める仕事の合間をぬって、英会話学校を卒業した。しかし、仕事もだいぶこなせるようになって、ついつい責任感という誘惑?に引きずられながら、なんと12年間も勤務してしまった。しかも最後の1年間は、社内結婚した夫と共働きで臨月真近まで電車通勤し、寿退社して、出産育児の生活に入った。翌年には年子で第2子が生まれ、その後も流産などを経験し、「夢」はどこかにしまい込まれたままになってしまっていた。
 成長していく子供たちを見守りながら、町内会の子供会や、幼稚園の父母会や、小学校から高校までのPTA活動に軸足を置き、多忙で楽しい時期を過ごすことができたと思っている。夫の2度のリストラも乗り越えられた。大学生となった子供たちを見ているうちに、若い頃に諦めた自分自身の道を模索し始めていた。
 平成14年春、私の中で長年あたためてきた【大学の通信教育部入学】を実行した。夫は快く応援してくれた。教育学部教育学科の社会教育主事コースを選んだが、年齢と資格取得の壁があり、卒業後に期待できないとわかり、翌年、日本語教師養成コースに転籍をした。真剣で前向きで明るく元気な老若男女の学友たちが、様々な困難を克服しながら、日本中、世界中からスクーリングに参加しているのを目の当たりにして、私も奮い立った。スクーリングは楽しく、自宅でのレポート学習はきつかった。主婦業のかたわらで、家族が寝静まった夜中に勉強を始めて、気がつけば夜が白々と明けていたという日も続いたが、学べる喜びの方が大きかった。頑張って頑張って4年で卒業したかったのに、たった1科目が間に合わず1年留年してしまったが、まだ大学生でいられることがちょっと嬉しくもあった。苦学している者同志が励まし合い友情も生まれた。尊敬する教授にも、たくさん巡り合えた。宝物を掴んだような日々である。
 平成19年春、卒業。【学士号】と【日本語教師養成コース修了証】を獲得、57歳になっていた。
 現在、区の国際交流協会が実施している、中国残留孤児や帰国孤児、海外帰国子女、在日外国人等に日本語を教える事業に参加している。昨年の秋から様々な研修を受け始め、世田谷の区立中学校夜間部の日本語の授業にも参加した。教授の言った《困難な状況》というものの現実がそこにあった。大学では、各国からの留学生、いわばエリート達への模擬授業を行った。しかし、国際交流協会の日本語教室や、夜間中学の授業に通う学習者達が、この国で晒されている状況は逼迫している。志ある人々が一生懸命になって、状況を少しでも良くするために活動していた。
 《大学を卒業して資格を取り、巷の日本語学校に就職して、出来れば収入のある生活》を予想していた私は、自分の生ぬるさを思い知った。若い日に思い続けた《人々の幸福と平和のために尽くす生き方がしたい》という、あの気持ちが再び沸いてきてしまった。
 この国の行政の貧困は、日本語教育をボランティアに頼らざるをえない現状を作り上げている。私は利他の行動をする人々とともに、良き変化を作りたい。縁あって私が授業をさせていただく人達には、その人が国内国外を問わず、どこに住むことになっても、その後の人生が幸せになるように、そんな授業のできる人になりたい。
 私の再挑戦その1・大学卒業は成し遂げた。その2・どうやら日本語教育に携わることができた。その3が、既に2度落ちている日本語教育検定試験合格。合格率16%の難関である。再々挑戦である。
最後にもうひとつ。若い頃に演劇に没頭していた時があった。今度、国際交流協会の日本語学習者達による日本語劇の発表会がある、ということで、その運営と演出に引っ張り出されることになった。《若い時の苦労は無駄にならない》という言葉を実感できる。