『なりたい自分』になる

久保田(牧)道子(50代)

 私は現在58歳。先日、社会保険庁で自分の年金受取額を確認してきた。55歳まで転職はあったが、ブランクなく仕事を続けてきた。その年金受取額は必ずしもバラ色の老後を示すものではなかった。
 何故だろう。日本の年金制度は、夫婦を単位として受取額を設定していることに改めて気付かされたのである。私が仕事を続けてきて受け取る年金額は、妻として家庭にいた人と、ある年齢からほとんど変わりなく、ある面では平等になっていたのである。
 大学卒業時、女子の就職率が100%の女子大の現実は、ほとんどが縁故採用によるものであった。私も叔父の紹介で、大手ゼネコンへの就職が決まっていた。就職に対する意識は、そんな低さだったのである。たまたま友人と受けた地元TV局のアナウンサー試験に、最終試験まで臨み、撃沈した。そこで知ったことは、アナウンサーになるために努力し、研究して試験に臨んだ人間しか残らないという現実だった。何も準備せず、幸運だけで就職できるほど、単純ではなかったのである。そこに、「自分の人生のイメージ=なりたい自分」を意識できなかった私がいた。
 OLと呼ばれる時期を2年経験し、結婚するために上京した。その結婚生活の中で、生活維持のために再就職する。新しい環境の中で、新しい自分を確保し、何よりも多少のゆとりある生活を求めたのである。そこにはまだ「なりたい自分」のイメージはなかった。
 薬学系私立大学の一般事務職の正職員として採用された私は、公務員なみの就業時間と給与が主婦との両立に都合がよかった。しかし、仕事を続けていくと、新たな自分に遭遇していく。単純な事務のせいもあったが、そこに考える私と、現状に甘んじない私が、むくむくと頭をもたげていき、物申す人間として職場のなかに存在していく。幸いなことに、大学の教員層は圧倒的に男性が多かったが、事務職層は女性が半数を占めていて、仕事の内容に男女差を求められることはなかった。仕事をすることに生きがいを感じていた。
 5年経って出産。産前産後6週間合計12週間後に、キッパリ復帰。企業に勤める夫と私の二人三脚の育児との格闘の中で、学長秘書への異動を命じられる。息子1歳のときである。職員組合の役員としても活動してきた私は、“これはイヤガラセ”いわゆる“パワハラ”と思ったが、組合の支援もあり、異動を受諾する。その異動命令は、それまでイメージできなかった「なりたい自分」なのではないかとの思いが頭をよぎったからである。
 それから8年、秘書として存分に仕事をしてきたとき、結局秘書業務の行き詰まりを感じる。子育てと仕事の両立は、「なりたい自分」への思いなどより、今日を生きるだけでいっぱいだった。仕事を続ける、辞めない、それだけだった。それでも息子が高学年になったとき、ステップアップを目論み、他課への異動を希望する。定期試験や教職の事前指導などを担当して5年、男性優位の人事考課に愛想をつかし、退職する。18年の勤務であり、息子は中学生になっていた。息子に家族の構成者としての義務ばかり要求してきたと反省もし、中学校の役員もした。息子に青春をさせたかった。ところが、そこにとどまることはできなかったのである。年齢は42歳。再就職の年齢制限はこえていた。でも、派遣社員としてなら、登録は可能なのだろうか。
 私はチャレンジした。そして、採用された。後で聞いたことによると、私を採用してもどこに派遣できるか疑問だったとのこと。でも、登録テストの成績がトップだったので一応採用されたらしい。このときは、「なりたい自分」になるために就職関連のテキストを勉強して臨んだことが結果につながった。
 時間と時給をコントロールできると信じて、派遣社員に登録し、出版社の英語セクションで庶務的な仕事を与えられる。指示される通りに仕事をクリアしながらも、その指示者の能力の低さに我慢できなくなる。20年近くの勤務経験のある私は、入社後4~5年の正社員の指示で働くことに苦痛を感じていく。
 派遣社員の現実と限界を身をもって経験したことにより、自分は派遣という働き方に納得できない人間であることを思い知り、大学を退職したことを後悔した。辞意を表明した私に、派遣会社の女性社長から、今までの経験を生かして、派遣社員の指導をしてみないかと提案された。20年の継続は、立派なキャリアだというのである。私の経験が後輩の指導に生かされる、それこそ「なりたい自分」なのではないか。
 嘱託から正社員試験を受けて採用され、研修担当として講座を受け持ち、関連する資格を取り始める。それまでは、中学・高校の教員免許(国語・書道)と普通自動車免許のみだった私は、秘書検定やワープロ、マナーインストラクター、ビジネスキャリア(教育訓練・能力開発)など、仕事に必要な資格を取っていった。セミナーにも参加し、日本語の話し方や、採用時の性格分析、教育担当者の実務等、学んでいった。資格はなかった英語検定や日本語教師検定なども再チャレンジした。華道も茶道も、初歩だったが役立った。仕事に結びつく資格と無縁だった私は、社長の励ましで、バタバタと資格を取っていった。私より10歳から20歳若い社員との仕事は、最先端のパソコンスキルを与えてくれた。やっと、「なりたい自分」に近づいているように思えた。
 一般企業で切磋琢磨していくと、次第に仕事の時間が長引き、家庭との両立が難しくなる。やっと「なりたい自分」が見えてきた、そんなときに家族の問題が起きる。夫の転勤や、息子の受験。能力の限界を知る羽目になる。人生の形が見え始めた頃、退職する。3年経っていた。
 そのときのメンバー達は今、何人かは起業したり、転職したり、大学院に通ったりしながら、「なりたい自分」に近づいている。
 “主婦”として生きることを選び、カルチャーセンターに通う。家族に内緒で、“シャンソン教室”へ。そして、“英語教室”、“アートフラワー教室”へ。それから、週3日の大学勤務へ。決して、正職員にならないと心に決めて。そして10年が経ったとき、ふと「なりたい自分」に気付かされる。もっと歌を聴いてもらうべきだとの、友人達の勧めから。
 新宿のシャンソニエのオーディションを受けて、合格する。高名な作詞家やピアニストの指導を受け、シャンソンコンクールにも出場。56歳のシャンソン歌手・牧 道子デヴューである。昨年は、16回のコンサートに出演し、シアターアプル、内幸町ホールなどでも歌った。研修講師からシャンソン歌手への転身は驚かれたりしたが、仕事で培った仲間達が、いつもコンサートに来てくれている。
 今、ここに「なりたい自分」がいる。きっと子供の頃から音楽が好きだったのだから。シャンソンの中のあらゆる人生を生きながら、そこに自分の人生を織り込んで歌う私がいる。私は、「なりたい自分」になったのだろうか。
 いいえ、私はまだ、「なりたい自分」になっていない。「なりたい自分」は何なのか、まだわからない。あれも、これもと願いながら、「なりたい自分」を探し続けたい。