セカンド・チャンス

N・K(40代)

 現在の私の職業は、保育士養成の専門学校の講師である。社会人で入学した大学、大学院と社会福祉を勉強し、社会福祉士の国家資格をとり、それらが認められて、この仕事に就き間もなく一年になる。
 そもそも大学受験のおり、昭和ヒトケタ生まれの父に「女の子はどうせお嫁に行くのだから、そんなにお金はかけられない。」といわれ、自分の思いとは全く違う地元(仙台)の短大に入学した。当初は、「女」に生まれてきたことの憤りをなかなか払拭することができなかった。しかし、以前から好きだった日本の近代文学を学び、「樋口一葉」を卒業論文の題材にしたことで、「女性」が世の中で認められることの苦難さを理解した。そこから、卒業するまでにボーボワールの書物を読みふけったり、友人と議論を交わしたり、「女性が働くこと」の意義を必死で見出そうとしていた。
 結果的に、私が就職したのは民放テレビ局であった。そして、すぐに配属になった部署はニュース番組を担当する報道部であるのだが、そのマスコミ・テレビ局が持つイメージと違い、男尊女卑がまかりとおる職場であった。例えば、10時と3時のお茶・コーヒーを入れる仕事はひとつの大切な業務であったし、女性は結婚したら退職するのが慣例であった。私の中でボーボワールの思想がガラガラと崩れていったのは、入社して間もなくであった。
 それでも、報道部での仕事は刺激的ではあった。「事務」での求人ではあったが、事務の仕事ばかりではなく、ニュース映像のBGM(音楽)を選曲する、記者の原稿を清書し、アナウンサーに手渡す、番組中のタイムキーパーの任務など、普通のOLではできない仕事がそこにはあった。さらに、実績を積み重ねていくことで、ついには事務の仕事を飛び越えて、カメラマンと一緒に取材にいき、インタビューや原稿を書く仕事も行えるようになった。そこまでいくのに、局内でもかなりの意識改革があったように思われる。つまり、ただ単に「女の子の仕事」という枠組みでおこなわれてきた業務は、果たしてそれでだけでいいのか。「女」でもできる仕事があるのではないのか。もっと広げて、「女性」だからできる仕事があるのではないのかという具合に。
 それから私は制作部への異動を機に退職し、上京してケーブルテレビ局に入社を果たした。念願だった一人暮らしは私の心に清涼感を呼び起こした。しかし、開局したての会社の仕事は忙しく、すぐに自律神経を病んでしまった私に、追い打ちをかけるように母の病気が発症した。病名は子宮癌、余命半年と診断された。できる限りの治療を続け、母はそれから二年生きた。その間、私も仕事と結婚生活と母の看病をこなした。その中で、ターミナルケアの問題、母の女性としての人生、医療福祉の問題を考えるようになった。
 母の通夜の席で、私は夫や親友に「仕事を辞めて、大学に行く」と宣言した。高校生の頃よりも更に強い決意で、果たせなかった四年制大学への進学を決めた。だが、その時点では何を学ぶかは焦点が定まっておらず、病床の母を見てふつふつとわき起こった「女性を支える」という思いだけが心にあった。受験勉強を進めていくうちに、私の中に沸き起こっている思いを解決してくれそうなのが「社会福祉」の分野ではないか、と思うようになった。そこで今までの私からは全く想像がつかない分野に進むことになった。
 そして、大学の卒論では「母子家族」について書き、修士論文においては「ドメスティック・バイオレンス」について研究した。
 大学院に在学中に妊娠出産した私は、修了後の数か月は育児に専念していたものの、マザーズハローワークに時々でかけては、幼子がいてもできる仕事はないかと探し求めていた。そして、たまたま近所の在宅介護支援センターでの育児休暇中の代替職員の職を見つけ、すぐに働くことになった。同じくらいの月齢の子を育児しながら、かたや育児休暇中、かたや代替職員という妙な立場ではあった。しかし、地域の子育て支援事業などの企画もさせていただいたりして、自分自身の育児にも勉強になる体験であった。それから「社会福祉士」の資格を活かして、改正介護保険の自立支援プランナーとして、地域で生活している高齢者の支援相談の仕事を行った。
 そして、今、保育士養成の専門学校で「児童福祉論」など福祉系科目の担当の専任講師として現在至っている。私の経歴を話すと、「そんな人がなぜここにいるの?」とよく言われる。確かに色々な経験が私の中には混沌と存在しているようにも思えるが、底辺には「女性を支えたい。」というテーゼがそこにあるのを感じている。働く女性をサポートする、悩める母を支援する、そして健やかな精神をもつ子どもを育てる、そんな保育者を養成することが今の私の使命なのではないかと思っている。