天気が回復するように-私のセカンドチャンス
匿名(30代)
1993年は冷夏で、梅雨が明けなかった。私の心もどんより曇っていた。
その年の3月、私は大学の工学部を卒業し、4月に音響機器メーカーに就職した。大学は、二浪の末やっと入れた大学だった。音響機器の設計をしたかったためだ。
しかし、会社の研修の段階で、私は自分でも気づいていなかったが、だいぶ疲れていた。大学4年生の秋に発症した「うつ」が治りきっていなかったのである。職場に配属されても、先輩の言っていることや仕事の進め方などがさっぱり頭に入らず、仕事や課題は遅々として進まなかった。しかも、配属された部署は、コードレス電話のソフトウェアの設計部門であった。私は工学部出身とは言え、ソフトウェアは全くと言っていいほど分からなかった。先輩からも「仕事が遅い」「質問する前に自分でよく調べなさい」と言われても、何をどう調べれば良いのかも分からず、行き詰っていた。そんな状況で、私のうつはますますひどくなり、9月に精神科を再受診した。2回目の診察で、「自殺を考えている」との私の訴えに、医師は入院を勧めた。しかし、私は実家の両親には病気のことは黙っていたので、入院を拒否してしまった。
その翌日、私は、恋人とのトラブルもあり、ついに自殺を図ってしまった。高所から飛び降り、腰椎、骨盤、上肢、下肢など計8か所を骨折し、入院した。24歳で初めての入院だった。3か月はベッド上で寝たきりであった。腰椎圧迫骨折も受傷して、脊髄のMRIの画像を見せられた時は、私は一生ベッドの上で過ごすのかと絶望的になった。しかし、装具を着ければ起き上がれることが分かり、実際にそれを実行してみると、すぐに歩けるようになり、希望が見えてきた。また、母が献身的な看護をしてくれたので、私の心はだいぶ落ち着いてきた。けがの方が、ほとんど後遺症を残すことなく治った。だが、結局、会社は、9か月休職し、退職を余儀なくされた。
その後、当時の恋人との仲が、私の自殺未遂により冷え込んだこともあり、うつは良くならず、精神科に入退院を繰り返し、再就職もままならなかった。いくら20代とは言え、最初の会社での経験がほとんどない状況では、中途採用はあきらめるしかなかった。医師からは、少しずつアルバイト的なことをしてはどうか、といわれていたが、最初の会社で仕事ができなかったことを思うと尻込みしてばかりであった。また、私はプライドが高く、「工学部で勉強したことが活かせる仕事でないとだめだ」と思ってもいた。実家で家業の商店を手伝うことしかできなかった。
転機は、骨折やうつで入院していたころから、医療機関で働きたいと思うようになったことだった。医師や看護師は今からでは無理だが、事務職として、病院などで働くことはできそうだと考えた。子どもの頃から医学にも興味があった。1999年、30歳になった私は、ある大手の医療事務の会社の講座を受けることにして、週2回のペースで教室に通った。その頃は体調もまだ不安定で、祖母の介護などもしていたため、睡眠不足になり、とても大変だったが、試験にも何とか合格できた。医療事務の資格は国家資格ではなく、狭義では資格取得ではないのだろうが、その会社で働くためには必要な資格であった。
そして、その会社の業務社員として、保険請求の仕事を始めた。最初は、のろまの私にはキツい仕事であったが、段々慣れてきて、8年間勤めることができた。最後は後輩に仕事を教える立場にもなった。以前の恋人とは別れたが、新しい恋人に恵まれて、波がありながらも幸せを感じられるようになった。
その頃、以前お世話になった精神科の医師が、私の自宅の近くで開業するという情報が入った。かねてより精神科の事務を希望していた私は、これはチャンスだと思い、そこに就職させてもらえるよう、医師に手紙を書いて頼み込んだ。医師は快く、承諾してくれ、2007年11月に開院したクリニックで働きはじめて、この2月で3ヶ月目になる。まだ、仕事も不慣れで、体調も疲れやすいが、段々と慣れていくであろう。
うれしかったこともある。10年ほど前、精神科に入院中に一緒になった患者さんが、今の職場であるクリニックに受診にみえた。彼女は当時よりずい分回復しており、私のことも覚えていてくれた。当時彼女とはほとんど話らしい話はしたことがなかったにもかかわらずである。彼女は今やって来ると握手もしてくれる。
もっと良い仕事ができるように、又、折角採用してくれた医師の恩に報いるために精進しようと思っている。今後は、時々やってくる「うつ」をやり過ごしながら、体調を整えて、がんばり過ぎないよう、長く続けていきたいと思う。
今の私の心は、寒くても澄んだ冬の青空のように、晴れやかになりつつある。