私のセカンド・チャンス

大竹 敏子(60代)

 「アメリカからの老夫婦を何日か泊めていただけない?」という一本の電話から私の人生の第二ステージの幕があくことになりました。グループで来日している一行の中に一組の老夫婦が参加しているのだが、郊外の家庭だと行事に参加するのに大変なので、都心の我が家に白羽の矢が飛んできたということでした。
 大学を卒業後、2年ほどある特殊法人の理事長秘書をし、結婚のため、郷里の新潟に帰りました。その後ふたりの子供に恵まれ、夫の仕事の関係でまた上京することとなりました。子供も小学校入学と幼稚園入園の年でした。そんなときに友達からのホストファミリーのお誘いでした。丁度翻訳の勉強をはじめたところで、いろいろな意味で私の興味をそそりました。いちもにもなく、お引き受けしました。楽しい一週間がすぎ、かれらは帰っていきました。その後、ひきもきらず、泊めてほしいという連絡がありました。NOといえない典型的な日本人の私は次々と引き受けていきました。その間、横田基地の子供たちを夏休みに家庭に泊め、その代わり日本人の子供たちを基地の家庭で何日か泊めていただくという試みもはじめました。我が家にやってくる人たちもアメリカ人からヨーロッパの方々、アジア人、アフリカ人と多種多様に渡るようになりました。蛇の道は蛇というだけあって、あの人の友達の友達とその輪はひろがりました。そのころから老後はこんなことを続けられたらいいわねと夫と話していたものでした。
 その間、英語の家庭教師や翻訳の仕事などをやっていましたが、クリントンがアメリカ大統領になった年に、ホストファミリー仲間の友達で、フリーライターでもある友達から「彼は若いから、日本からの交換留学の不均衡が問題視されるかも」と言う電話がありました。私たちの今までの経験を「内なる国際化」の一端に役立てる方法として、-冊の本を出そうということになりました。長い間のボランティア活動のお陰で、日本中でホストファミリーの経験者を捜すのはたやすいことでした。そのお陰で「ホームステイin日本」という本を出版できました。翌年には多くの協力者を得て、英語版で出版することも出来
 ました。
 この本の出版がきっかけになり、私の所に多くの外国人からホームステイしたいという問い合わせやらアパートを斡旋してほしいなどの問い合わせがくるようになりました。一緒に不動産やをまわって見ましたが、彼らがアパートを見つけるのはなかなか大変なことなのだと知りました。それならと宅建の試験をうけ、不動産業の営業許可の申請もしました。知り合いの空いている家をシェアーハウスとして使わせていただいたり、また協力してくださる大家さんも現れました。我が家でホームパーティをやって、交流会のようなことをやったりしました。大家さんの中にはこのやり方なら私も出来るわとおっしゃって、ご自宅で日本のお正月を楽しむ会を開いてくださる方もでてきました。また、シェアーハウスの住人が以前住んでいた方や友達を招いて、各国の料理でもてなしてくれるパーティを開いたりしてくれるようになりました。
 その間、いわゆる在外日本人の方々と知り合うことも出来ました。そうした方々とは今でも親戚のような付き合いが続いています。夏休みの間、ドイツに住む小学生の子供を一人で我が家におくりこんで来る人もいます。夏休みの間、近所の子供たちと遊んでいるだけで、すっかり日本語が上手になったり、我が家に住んでいる英語圏の人と話しているうちに英語での交流もできるようになったりと彼の逞しさには目を見張るものがあります。そんな小学生が今は大学生になり、この3月に日本に来るので、泊めてと先日電話がありました。
 こんな小さな活動ですが、日本に来る外国人の方々と接していると、世界の動向がとてもよく分かります。激動の世界でどの国の若者も試行錯誤をくりかえしながら、自分の人生を模索している姿に未来を信じることができ、また日本が海外でどう見られているのかなども身をもって知ることが出来ると確信しています。
 これからも日本にやって来る若者との交流を細く、細く、とぎらせることなくやり続けたいと思っています。