私は簡単体操のボランティア

A・Y(40代)

 二十五歳で出産。これを機に仕事を辞めました。
 そして、更に二十五年の時が流れ・・・
 現在は簡単体操の指導員としてボランティアに励んでいます。
 特別養護老人ホーム、認知症対応のグループホームなどへ伺い、歌を唄ったり高齢の方でも無理のない楽々体操を指導させて頂いております。
 また、岐阜市の筋肉トレーニングサポーターでもあり、地域の老人会や公民館で他のサポーターの皆さんと一緒に参加者に筋トレを教えています。
 生涯学習一級インストラクター、筋トレサポーター、福祉住環境コーディネーター、歯科助手と資格を積み重ねていくうちに、体操のボランティアへ辿りつきました。
 私を動かしている原動力は出産からです。
 働きたかったけれど、産まれた息子は重度の障害児でした。思い描いた人生の設計図が消えてしまいました。
 心臓に穴が開いている、このまま寝たきりだとか耳慣れない言葉で何故追い詰められるのかわかりませんでした。息子に付添い入退院の繰り返しで疲れ果て、夫と夫の両親からは障害児を産んだことを責め立てられるだけで、助けてはくれなかった。迷うことなく手首を切りました。
 でも死ねなかった。ただ泣くだけの息子は少しも可愛くなくて、医師から指示されたことを無気力にこなすだけ。私は社会から放り出された敗者だと感じていました。
 しかし時の流れは驚くほどの力で私に生きる意味を授けたのです。
 夫の両親が揃って病気になりました。義父はパーキンソン病、義母はアルツハイマー病を患い介護が急務となり、疎遠である嫁の私が引き受けました。義弟夫婦は困惑し離れて行きました。
 見捨てられる辛さを知るからこそ、仕返しではなく手助けを選びます。何故ならば、義父母の病気は息子の障害に何の関係もないからです。息子が産まれなくとも義父母は病気になるでしょう。けれど障害児が産まれその介護に十数年を費やした私だから自信がありました。そんな思い上がった介護を始めると福祉の多面的な問題に気づきました。
 障害者とは異なる老人福祉の現実は、介護保険を知らない、退院しても行き場所がない、行政への訴える手段がわからないなど現実に直面しているのです。頼みの家族は親が老いることへの危機管理がありません。老人ホームへ入所させ住所を変更して逃げる家族もあると聞きました。
 私に何ができるだろう。折しも義父が亡くなると今度は実家の父が認知症になりました。義母と実父は認知症ですが症状は全く異なります。認知症患者の対応に慣れているはずなのに、実父の形相には恐怖さえ覚えます。市内を駈けずり回り施設を探しました。
 義母は特養、実父は老人保健施設へ落ち着き息子は作業所に通っています。時間に拘束された私の自由時間を生かして、勉強に励み資格を取るようにしたのです。正しい知識がなければ次の段階へ進む行動が取れないと思いました。
 学び続けて気づいたことは、義父母も実父も当てはまる通り家に閉じこもり、社会との接点を断ち切ってしまったことでした。暗い部屋の中でテレビだけが大音量でうなり、横になるだけの毎日の繰り返し。これではうつ病から認知症へ一直線です。
 働き続けて年を重ねれば休みたい。それは当り前です。でも生きることを休んでしまうと残された人生が色褪せてしまうかも知れない。そのことに気づいてほしいと思いました。私の小さな力でも役立てることはないかと考えたとき、運動を思いつきました。
 私は七年前に子宮ガンで子宮を全摘、体力回復を兼ねて五年前からエアロビクスを習っています。さすがに激しいダンスで高齢の方が軽い運動のつもりで見学に来られても、続かなくて辞められます。
 (もっと楽な体操なら続けられるかも)
 岐阜市が元気な高齢者の方に体操を指導するプロジェクトを立ち上げ、それにのっかりました。
 エアロビのおかげで身体はよく動くつもりです。体力はあるのでやさしい体操ならついてゆけるだろうとがんばるだけです。
 私の行動がどれだけの効果を生むのか、未知数です。
 今年五十歳になります。七十歳、八十歳と私自身が生きがいとして体操を続けることが目標です。